--毎日毎日、ぼくらは鉄板の、上で焼かれて、いやになっちゃうよ-- 高田ひろお

少ないおいらの経験だと、40代くらいの既婚女性で、15歳前後の息子がかわいくてかわいくてしょうがないとしきりに訴える方に、しばしば出会う(5例くらい)。一方、おいらの経験では、娘がかわいくてしょうがないと訴える御婦人に遭遇したことはない。
その息子「自慢」の御婦人方は、非常にいきいきと息子を語る。そして、それはむしろポジティブなことではなく(もしそうなら単なるイヤミになってしまう)、うちの息子はいかに手がかかるカブキモノであるかをいきいきと、そして決して失望しているのではなく、むしろ秘めた自慢が炸裂している。
くりかえすが、同様に娘自慢の御婦人には会ったことはない。なぜだろう。
それは、「男」は「母親」がつくるからである。つんぽついたヒトは、母親に、「男」という鉄板の鋳型に注ぎこまれる。そして、ぱたんと鉄板は閉じられ、焼かれるのである。くびのすわらないうちから、カブトとかかぶせられ、無理に写真とか撮られちゃう。ずりおちかけたカブトに、いやそうなアカンボウの顔。日本男児の67.4598%が所持している自分の幼少時の写真にほかならない。これに、小さなコイノボリを片手に握らされている場合は、かなりキテルネといわざるをえない。
なぜ、「女」=「母親」は、「男」づくりに熱心なのか?
一方、もちろん、女=娘もつくられているわけだが、その自慢は、おいらは聞かない。なぜだろう? 娘自慢は「父」がするのか?
(そして一方、ひそかにおいらは、ラディカル・フェミの成因は、母親との確執ではないかとにらんでいる。というと、「反動ぶんす=backlash」として糾弾されるかな? おいらはcounteractionの語の方がすきだけど。でも生まれながらのハンドーだもの、しょーがなかんべ。)
上記、西原理恵子の『ああ息子』に描かれているのだろうか?
機会があったらみてみよう。

少ないおいらの経験だと、40代くらいの既婚女性で、15歳前後の息子がかわいくてかわいくてしょうがないとしきりに訴える方に、しばしば出会う(5例くらい)。一方、おいらの経験では、娘がかわいくてしょうがないと訴える御婦人に遭遇したことはない。
その息子「自慢」の御婦人方は、非常にいきいきと息子を語る。そして、それはむしろポジティブなことではなく(もしそうなら単なるイヤミになってしまう)、うちの息子はいかに手がかかるカブキモノであるかをいきいきと、そして決して失望しているのではなく、むしろ秘めた自慢が炸裂している。
くりかえすが、同様に娘自慢の御婦人には会ったことはない。なぜだろう。
それは、「男」は「母親」がつくるからである。つんぽついたヒトは、母親に、「男」という鉄板の鋳型に注ぎこまれる。そして、ぱたんと鉄板は閉じられ、焼かれるのである。くびのすわらないうちから、カブトとかかぶせられ、無理に写真とか撮られちゃう。ずりおちかけたカブトに、いやそうなアカンボウの顔。日本男児の67.4598%が所持している自分の幼少時の写真にほかならない。これに、小さなコイノボリを片手に握らされている場合は、かなりキテルネといわざるをえない。
なぜ、「女」=「母親」は、「男」づくりに熱心なのか?
一方、もちろん、女=娘もつくられているわけだが、その自慢は、おいらは聞かない。なぜだろう? 娘自慢は「父」がするのか?
(そして一方、ひそかにおいらは、ラディカル・フェミの成因は、母親との確執ではないかとにらんでいる。というと、「反動ぶんす=backlash」として糾弾されるかな? おいらはcounteractionの語の方がすきだけど。でも生まれながらのハンドーだもの、しょーがなかんべ。)
上記、西原理恵子の『ああ息子』に描かれているのだろうか?
機会があったらみてみよう。