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CNNでは昨日、おとといとKoizumiがプレスリー邸に行ったことを頻繁に報じていた。そして今日はHashimotoの死を報じている。インガなものだ。小泉が得意の絶頂の時に、橋本は物理的にこの世から去る。もちろん政治的には、人に罪をなすりつけるという人間として最低の行為をもってその恥知らずをさらし、死に体どころが生きる恥さらしとして、引退したとはいえ、存続していた。
それにしても、小泉と橋本を比べると、橋本は田中の系譜の後継者の代表者として、小泉の絶好のreference、そして政敵と思われがちだ。事実、総裁を戦ったのだから、政敵ではあるし、事実そうだった。しかし、政治路線としてはむしろ両者はそうちがわないのである。橋本は行革をし、小さい政府を目指した。さらには、橋本の総理総裁就任時、佐藤の墓参りというパフォーマンスをした。角栄ではなく、佐藤栄作の墓参りをしたのである。そのこころとは、自分は「角栄の子」では「栄作の子」であるといことを、暗に、アピールしたかったに違いない。
角栄的手法を、実は、橋本は好みではなかったとおもわせる。その点、本当は、小泉に近いのかもしれない。特に、人の世話をみるとか人となれあうとかいうことが嫌いそうなところも実は似ている。湾岸戦争の時に大蔵大臣として1兆円を米国にくれてやったのも橋本。対米従属路線では両者甲乙つけがたい。さらには靖国だって議員時代から春秋こまめに行ってたのは橋本だろう。
でも、やっぱり、小泉と橋本は決定的に違うのだ。その違いは「狂気」のあるなしである。その成果の違いは誰の目にも明らかだ。もっともその成果の良し悪しは問わないが。橋本は、つっぱているように見えて、実はおりこうさんなのだ。小泉なら絶対土井たか子にこびをうってまでも政権を維持したりしないだろう。これは右、左の問題というより、生き方=美学の問題で、目先のことに妥協して小さな成功を重ねても、大事を遂げなければどうしょうもないというのが小泉の美学。つっぱり橋本も実はいい人で小心者だったのだろう。なにより、小泉は支那の間者につんぽはめなっかたのがえらい。ちゅーか、金髪好みだってだけかな?