語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『エッセイスト』

2010年03月14日 | ●玉村豊男
 フットワークの軽さ、明快な文章で数々のエッセーをものしてきた玉村豊男が、50歳を区切りに書き下ろした半自伝である。
 四半世紀にわたる文筆活動を回想する。

 玉村豊男は、終戦の年に生まれた。言語学に関心をもち、学部学生時代の1968年9月から1970年4月までパリ大学言語学研究所へ留学した。
 ところが、1968年は5月革命が起きた年だった。
 ために、もっぱら本を読み、友人と交友する日々となった。通訳のバイトをきっかけに、放浪の旅へのめりこんで「遊学」の徒となり、フランス内外の各地で人々の生活と文化にふれた。料理に目覚めたのもこの頃である。

 帰国して就職活動をしたものの時期が遅くて就職口が見つからなかった。
 つてをたどってやっとフジテレビに潜り込んだが、採用が内定されたフジテレビは合宿の段階で辞退。組織になじめなかったのである。

 以後、通訳、添乗員、技術翻訳、雑文書き、その他で生活を支え、やがて筆一本で生きることになった。
 32歳で処女作を刊行し、フリーのエッセイストとして次第に業界に名を知られていった。
 38歳のとき軽井沢に本拠を移した。当時珍しく、高価でもあったファックスを導入することで、原稿の注文と発送をこなしたのである。

 自営業のシビアな事情が「取材と必要経費」で記される。
 コピー機などの設備に要する費用、電話代・交通費その他もろもろの経費は自分持ちだから、サラリーマンと同じレベルの仕事と生活を維持するには、フリーは2.5~3倍の年収が必要である。それでも給料取りは性に合わない、やってなんぼの稼ぎ方がいい、と著者はいう。

 ところで、エッセイストとは何か。
 著者の考えは次のとおりだ。
 (1)小説とちがって作り話をしない。
 (2)ノンフィクション(ルポ)よりも私的である。
 (3)随筆とくらべるとより考察的な散文の形式で、扱うテーマに制限はないが、どんなテーマを扱ってもそれに対処する自分というものが同時にひとつのテーマとなっており、思索や考察も日常感覚に根ざした筆者の等身大を越えない。天下の大事を語らず、大義も説かず、口先だけの話もしない。
 (4)記述はかならず体験に裏づけられていなければならず、感想は生活者の視点から語られるが、つねになんらかの意味で、面白いものでなくてはならない。

 ここでいう「面白い」とは、単に楽しいとか笑えるとかいうことではない。
 この言葉は、目の前がパッと明るくなる、白くなるというのが元の意味だ。転じて、目前の風景が急にクリアーになり、明快になり、目からウロコが落ちる、ということ。
 日常の誰もが目撃する光景、どんな人生にもありそうな出来事、だれも見逃してしまいそうなささいな事柄を語りながら、だれも気づかなかった物の見方をさりげなく呈示する。このあたりがよくできたエッセイの醍醐味である。要するに、「エッセイストは試みの人生を生きる人」だ。
 たしかに、玉村豊男の半生をたどると、夫子自身いろいろと試みることの多い人生ではあった。

□玉村豊男『エッセイスト』(中公文庫、1997)
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