語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『パリ 旅の雑学ノート』

2010年03月25日 | ●玉村豊男
 多産なエッセイストの処女作である。
 当時東大仏文科の学生だった著者は、2年間パリで留学生生活をおくり、その後本書を書きあげるまでの10年間、毎年2回ほど渡仏していた。
 ただし、名所旧跡とは縁がなく、ブラブラとあてどなく散歩するだけ、といった過ごし方だった。だから、いつまでたっても「フランスの政治・経済・文化など、高級なことども」はわからず、「ただ身近なこまかい事柄」だけが蓄積された、と著者はいう。
 かくて、まえがきは言う。「これからパリに行こうとしている人、(中略)パリの好きな人、(中略)フランス語を知っている人いない人、その他すべてのヒマな人のために書かれた。(中略)パリに関する本は山ほどあるが、本書ほどくだらない、どうでもいいようなことばかり、それもこれほど綿密に書き並べた本はない」

 じじつ、パリの名が喚起するイメージ、文学も哲学も政治も恋愛も、本書には一切出てこない。出てくるのは「こまかい事柄」ばかりだ。
 無名と有名とを問わず万民がそこで一杯やり、食事し、議論し、あるいは呆然と路上を行く人を眺めてすごすカフェをはじめ、パリ人の生活の核がきめこまかに、かつ、徹底的に綴られる。
 カフェにはカウンター(立ち食い、立ち呑みが原則)、サル(室内の椅子とテーブルを並べた空間)、テラスの歴然と区分される空間があるとか、街路樹の種類(もっとも多いのがプラタナス、その次がマロニエ、以下エンジュ、ボダイジュ、ニレ、ポプラ、アカシア、カエデ・・・・)とか、もっとも乗降客の多い駅はサン・ラザール駅だとか。

 これらは「どうでもいいようなこと」は、パリの住民にとって空気のように当然そこにあるものだ。読者は、「どうでもいいようなこと」をつうじて、パリジャンやパリジェンヌの日常感覚の一端を感じとることができる。
 すくなくとも、メトロの切符とかワインのラベルを旅のノートに張りつけて楽しむ人には無類におもしろい。

 日常生活で使われる言葉には原語が付記され、一部の言葉には歴史的な由来の説明もあるから、フランス語ないしフランス人の生活に関心のある人には興味深く読める。
 四半世紀以上前に書かれたから、その後の世情は反映していない。たとえば、世界で唯一普及したビデオテックスシステムのテレテル、そしてその端末機のミニテルには当然ながら言及されていない。また、貨幣単位をはじめ、今はむかしの「雑学」もある。

 だから、21世紀に初めてパリを訪れる短期旅行者向けのガイドブックとは言いがたい。しかし、パリを再訪する人、パリの生活の一端にふれたい人には、一読、再読する価値は今もってじゅうぶんにある。人を描かず、人をとりまく環境を綴って、見事にパリ人の生活を浮き彫りにしているからだ。

 本書は、後に文庫にはいったが、単行本に豊富に収録されていた写真、図版が小さくなってしまった。また、注釈をはじめとするノート感覚のレイアウトが失われ、単行本のときの妙味が消えてしまった。惜しい。

□玉村豊男『PARIS パリ 旅の雑学ノート カフェ/舗道/メトロ』(ダイヤモンド社、1977。後に新潮文庫、1983。後に中公文庫、2009)、『PARIS パリ 旅の雑学2冊目 レストラン/ホテル/ショッピング』(ダイヤモンド社、1977。新潮文庫、1983)
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