「料理の四面体」のアイデアは、クロード・レヴィ=ストロースの“料理の三角形”から得ている。
玉村豊男は、クロード・レヴィ=ストロースを学生のときに何冊か読んだ。難しい内容なのでよくわからなかったが、「“料理の三角形”というのは、たしか、ナマのもの、火にかけたもの(直火で焼いたもの/容器に入れて煮たもの)、腐ったもの、というように料理の形態を対比させ、それをもとにしてさまざまの議論を展開していくものだったような気がする。どうもその本体のほうははっきり記憶にないが、“料理の三角形”という言葉が印象深く感じられたのと、そのときに、もっと実用的な料理法の分類のしかたがあるんじゃないか、と思ったことをよく覚えているのである。これが“料理の四面体”などということを考えることになた直接の契機といえばいえないこともない」。
玉村は、レヴィ=ストロースにヒントを得て、料理法の実用的な分類を構想した。
加藤周一は、レヴィ=ストロースから、大きさの心理的効果の、比較文化論的および歴史発展的叙述を考えた。
ある日、加藤は、ニューヨークの画家リラン(Lilan)と肖像写真の展覧会を見た。画家リランは、当時、大きな画面に罫の入った帳面を油で描いていた。写真家(Avedon)は、近作の肖像写真を実物大またはそれ以上に引き伸ばして展示していた。
巨大な帳面を描いた画面の効果は、あきらかに対象の拡大と関係している。
大きく引き伸ばした肖像写真は、普通の写真と全く異なる印象をあたえる。これも、大きさと関係しているにちがいない。
15世紀から19世紀かけての西洋の写実的な肖像画(油彩)には、悲しみ、よろこびが出ている。行動してきた人間の、そのすべての歴史を要約するようなある瞬間の表情が。またその表情を通しての人間の存在感が。
写真でも引き伸ばして大きくしさえすれば、強くそういうものが出てくる。
ここからレヴィ=ストロースに話が飛ぶのだが、この飛躍は興味深い。連想というものの不思議さをかいま見せる。
加藤は、先の展覧会の印象を話しながらマディスン街を歩いていたのだが、そのとき、かつて並木が黄葉したサンジェルマンの通りを歩きながら『野生の思考』や構造主義について友人と話し合っていたことを思い出したのだ。
構造は、大きさによって変わらない。地球儀の構造は、地球のそれに同じだ。大きくは、(1970年代の)米・中・ソの大国間に、小さくは『大経師昔暦』のおさん・茂兵衛・以春の間にも、三角関係がある。同じ構造は、碁石を三つ並べてもできるだろう。すなわち構造は、大きさによらず、またその要素の質によらない。後者の性質はレヴィ=ストロースの体系の要点の一つだが、前者は『野生の思考』の画論にも見られる。
構造を変えないで、現実の大きな対象を小さく描く。絵画の基本的な役割の一つは、かくして現実の全体の理解(認識)を可能にすることだ。・・・・とレヴィ=ストロースはいうのである。
「樹をみて、森をみない人は、絵画によって森をみる。すなわち絵画地球儀説である」
しかし、リランの場合は逆だ。リランは、逆立ちしたレヴィ=ストロースである。いや、彼女に限らない。また現代の芸術家にさえも限らない。肖像彫刻に記念碑的効果をあたえるためには、途方もない大きさが必要であった。エジプトの「王家の谷」から奈良の大仏殿まで。また、スウィフトは小説の中で、フェリーニは映画のなかで、人体を拡大したことがある・・・・。
「画面のあたえる効果に大きさのもつ意味は、むろん、見る人の生理解剖学的条件と、その条件に密接な日常生活上の慣習と、深く関係しているだろう。しかし、日常生活上の慣習は、また文化に係わり、文化は、--少なくともわれわれの社会では、歴史的である。大きさの心理的効果の、比較文化論的および歴史発展的な叙述が、成りたつのではなかろうか、--と私は考え始めている」
*
余談ながら、北朝鮮は金日成の巨大な銅像を幾つも制作している。その技術を活かして、アフリカ諸国で大型の彫刻をあいついで制作し、2000年以降に推定1億6千万ドル(約131億円)以上を稼いだ。2010年3月には、ジンバブエの英雄ジョシュア・エンコモをかたどった「自由の闘士像」を。同年4月には、セネガル独立50周年を記念する「アフリカ・ルネサンスの像」を。そして、チャドでも。
【参考】加藤周一「大きさの話または『野生の思考』の事」(『言葉と人間』、朝日新聞社、1977)
2010年10月12日付け!Korea & YONHAP NEWS
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玉村豊男は、クロード・レヴィ=ストロースを学生のときに何冊か読んだ。難しい内容なのでよくわからなかったが、「“料理の三角形”というのは、たしか、ナマのもの、火にかけたもの(直火で焼いたもの/容器に入れて煮たもの)、腐ったもの、というように料理の形態を対比させ、それをもとにしてさまざまの議論を展開していくものだったような気がする。どうもその本体のほうははっきり記憶にないが、“料理の三角形”という言葉が印象深く感じられたのと、そのときに、もっと実用的な料理法の分類のしかたがあるんじゃないか、と思ったことをよく覚えているのである。これが“料理の四面体”などということを考えることになた直接の契機といえばいえないこともない」。
玉村は、レヴィ=ストロースにヒントを得て、料理法の実用的な分類を構想した。
加藤周一は、レヴィ=ストロースから、大きさの心理的効果の、比較文化論的および歴史発展的叙述を考えた。
ある日、加藤は、ニューヨークの画家リラン(Lilan)と肖像写真の展覧会を見た。画家リランは、当時、大きな画面に罫の入った帳面を油で描いていた。写真家(Avedon)は、近作の肖像写真を実物大またはそれ以上に引き伸ばして展示していた。
巨大な帳面を描いた画面の効果は、あきらかに対象の拡大と関係している。
大きく引き伸ばした肖像写真は、普通の写真と全く異なる印象をあたえる。これも、大きさと関係しているにちがいない。
15世紀から19世紀かけての西洋の写実的な肖像画(油彩)には、悲しみ、よろこびが出ている。行動してきた人間の、そのすべての歴史を要約するようなある瞬間の表情が。またその表情を通しての人間の存在感が。
写真でも引き伸ばして大きくしさえすれば、強くそういうものが出てくる。
ここからレヴィ=ストロースに話が飛ぶのだが、この飛躍は興味深い。連想というものの不思議さをかいま見せる。
加藤は、先の展覧会の印象を話しながらマディスン街を歩いていたのだが、そのとき、かつて並木が黄葉したサンジェルマンの通りを歩きながら『野生の思考』や構造主義について友人と話し合っていたことを思い出したのだ。
構造は、大きさによって変わらない。地球儀の構造は、地球のそれに同じだ。大きくは、(1970年代の)米・中・ソの大国間に、小さくは『大経師昔暦』のおさん・茂兵衛・以春の間にも、三角関係がある。同じ構造は、碁石を三つ並べてもできるだろう。すなわち構造は、大きさによらず、またその要素の質によらない。後者の性質はレヴィ=ストロースの体系の要点の一つだが、前者は『野生の思考』の画論にも見られる。
構造を変えないで、現実の大きな対象を小さく描く。絵画の基本的な役割の一つは、かくして現実の全体の理解(認識)を可能にすることだ。・・・・とレヴィ=ストロースはいうのである。
「樹をみて、森をみない人は、絵画によって森をみる。すなわち絵画地球儀説である」
しかし、リランの場合は逆だ。リランは、逆立ちしたレヴィ=ストロースである。いや、彼女に限らない。また現代の芸術家にさえも限らない。肖像彫刻に記念碑的効果をあたえるためには、途方もない大きさが必要であった。エジプトの「王家の谷」から奈良の大仏殿まで。また、スウィフトは小説の中で、フェリーニは映画のなかで、人体を拡大したことがある・・・・。
「画面のあたえる効果に大きさのもつ意味は、むろん、見る人の生理解剖学的条件と、その条件に密接な日常生活上の慣習と、深く関係しているだろう。しかし、日常生活上の慣習は、また文化に係わり、文化は、--少なくともわれわれの社会では、歴史的である。大きさの心理的効果の、比較文化論的および歴史発展的な叙述が、成りたつのではなかろうか、--と私は考え始めている」
*
余談ながら、北朝鮮は金日成の巨大な銅像を幾つも制作している。その技術を活かして、アフリカ諸国で大型の彫刻をあいついで制作し、2000年以降に推定1億6千万ドル(約131億円)以上を稼いだ。2010年3月には、ジンバブエの英雄ジョシュア・エンコモをかたどった「自由の闘士像」を。同年4月には、セネガル独立50周年を記念する「アフリカ・ルネサンスの像」を。そして、チャドでも。
【参考】加藤周一「大きさの話または『野生の思考』の事」(『言葉と人間』、朝日新聞社、1977)
2010年10月12日付け!Korea & YONHAP NEWS
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