語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【旅】彫刻の街 PART2 ~題名のない彫刻群~

2012年05月16日 | □旅
 題名のない彫刻群。以下は、仮につけたタイトル。


 テキも猿もの


 棺


 蝦蟇口のお化け


 とと


 ベッド


 妖しい


 同じく


 オバQ


 編み笠十兵衛


 アンモナイト


 岸辺


 白鳥は哀しからずや空の青海の青にも


 復興


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【経済危機】ギリシャはどこで間違ったか ~先送りの弊害~

2012年05月16日 | 社会
 ギリシャ現代史の要となる一族は、パパンドレウ家だ。3代にわたり首相を輩出した名家だ。わけても2代目アンドレアスは、ギリシャで最も重要な政治家として名を残す。ギリシャを欧州の他の国なみの民主国家にし、福祉社会を築いた、とされる。
 彼に吹きつけた最大の逆風は、軍事クーデタ(1967年)だった。その頃、首相の父ヨルギオスの右腕として働いていたが、クーデタに伴って投獄された。その後、カナダに渡って遠くからの政治活動を余儀なくされた。
 軍事独裁政権の崩壊(1974年)後、自ら旗揚げした「全ギリシャ社会主義運動」(PASOK)を率い、1987年の総選挙で地滑り的勝利をおさめた。
 アンドレアス首相は、何もなかったところに多くの福祉政策を一気に導入した。国民保険制度を設け、小さな村々に診療所を置いた。年金の権利がなかった多数の労働者や農民に、年金を保証した。最低賃金も大幅に引き上げた。ことに農村の女性に対する年金制度は、小さな村や町に住んでいた女性たちに誇りと独立心を育んだ。
 アンドレアス政権は、インフラ整備にも力を入れ、ギリシャの各地で空港が建設され、道路が延びていった。
 高度成長期の日本において、田中角栄の「日本列島改造」の政治と、福祉の旗をふった社会党の政策が一つになったようなイメージの政治だった。

 社会福祉の充実は、よい一面だった。
 他方、悪い一面は、数多くの大企業の国営化だった。経営がおもわしくなく、傾いた企業が多かったからだ。これらの企業には、失業のふちにある多くの労働者がいた。民衆の期待を背負って登場した中道左派政権にとって、政治的には国有化のほか選択肢はなかった。
 企業の国有化は、国が雇用を確保する仕組みをギリシャ社会の中に埋め込むことになった。福祉やインフラ整備など、導入された多くの政策でも、公共部門に新たな仕事が必要になった。
 問題は、それがいつの間にか、有権者の歓心を買う手段になってしまったことだ。政権が代わるたび、公的部門で無用な仕事を作りだしてまで支持者を雇って支援をつなぎとめようとした。これは、やがて、公的部門で働く人が全ての雇用者の4分の1といわれる「公務員天国」を生み出すことになる。
 公共部門での縁故採用も横行した。福祉やインフラの現場では、ムダも横行した。病院が備品や薬品を法外な価格で買ったり、道路建設費が欧州の他の国に比べて何倍も高い、という批判が絶えなくなった。誰かが甘い汁を吸っていた。
 みなが権利を私利のために使うようになった。父が考えもしなかったことだ。【ニコラス・パパンドレウ(作家)、アンドレアスの息子の一人】

 民主化の時代(1980年代)は、ギリシャの産業が力を失っていく時代でもあった。まず石油ショック、ついで欧州に市場を開いたことで保護を失ったことが響いた。
 しかし、政治家たちは、競争力を高めるための政策を講じず、失業者を公共部門で雇うことで失業保険の代わりにした。カネが湯水のように流れ出ていったが、それに見合う増税はしなかった。支出はもっぱら借り入れで賄われた。GDPに対する政府債務残高の割合は、23%(1980年)から、アンドレアスが2期目を終えた年には60%(1989年)に増大した。

 中道右派が政権をとっていた間にも国の借金は増え続け、アンドレアスが3期目の首相に就いた1993年には100%に達しようとしていた。
 我々が債務を消し去るか、債務が国を消し去るか。【アンドレアスの演説】
 だが、いずれも起こらなかった。2001年、ユーロ加盟によって、国債を発行するときの金利が劇的に下がり、借金しやすくなった。1990年代後半の年10%超が年5%弱に・・・・ドイツの金利と変わらなくなった。市場がギリシャを甘やかし、問題を深刻化させた。
 それまでの直近2年間はGDP比100%を下回った政府債務残高は、2005年、100%に戻り、その後も徐々にと膨らんでいった。2004年の五輪にも巨費が投じられ、財政をさらに悪化させた。

 2008年夏、ユーロ圏の中で、ギリシャの国債金利だけがじわじわと上がり始めた。理由の一つは、米国座部プライム問題の発生で、投資家たちが不安がありそうな証券を警戒するようになったことだ。ギリシャ国債もその一つだった。
 11月下旬、ドイツ国債に比べて、1.6%程度の差がついた。青くなったヨルギオス・アロゴスクフィス財務相は、ひそかに消費税の大幅増税や支出の削減などの財政再建策をまとめあげた。当時、ハンガリーがIMFとEUの支援を仰ぐことになっていた。ギリシャもいずれ同じことになるのではないか、とヨ・ア財務相は危機感を部下に漏らした。だが、中道左派の新民主主義党(ND)政権は、公務員給与ベースアップの1年間凍結などの策でお茶を濁すのみ。早めに手を打つタイミングは失われた。
 もしあの時に行動を起こしていれば、財政緊縮策は今より少なくて済んだ。少なくとも今のような落伍者扱いをされることはなかった。【財務省関係者】

 2009年春、EU統計局から、予算の数字がおかしい、と指摘されたが、最終的な回答は総選挙まで引き伸ばされた。数字のごまかしがやがて露見し、危機の引き金を引いた。
 ギリシャは今、自分で国債を発行できなくなり、IMFやEUから融資を受けて、何とか国の機能を維持している。
 ギリシャ危機が始まって以来、対応したのはパパンドレウ家3代目の首相、ヨルギオスだ。皮肉にも、父親が強いたギリシャ流福祉国家のレールを引き返すのが彼の仕事となった。父親がつくり、彼の政権与党となったPASOKがこれまで主張してきたのとは正反対の政策だ。それもIMFやEUの指導の下に。

 ヨルギオスのあとを継いだのは、ギリシャ中央銀行総裁だったルカス・パパディモスだ。政治家への不信が頂点に達し、テクノクラートに政権を委ねるしかなくなったのだ。選挙の洗礼を受けていない人が国を率いるのは、軍事クーデタで生まれた独裁政権以来だ。
 古代に民主主義を生んだギリシャで、民主主義が終わりはしないまでも一時停止を迎えた。歴史の皮肉だ。
 5月6日に総選挙が実施されたが、民主主義の一時停止は6月まで続く。

 以上、有田哲文(朝日新聞編集委員)「ギリシャ、どこで間違ったか」(「世界」2012年6月号)に拠る。
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【社会保障】同時多発不安社会への処方箋 ~弱者99%社会~

2012年05月15日 | 医療・保健・福祉・介護
 3・11で、日本をめぐる状況は一段と不透明さを増し、私たちは今、「同時多発不安」の状況に置かれている。格差拡大、震災、原発事故、欧州金融危機、東アジアの経済成長の歪み・・・・。
 震災は、もともとの社会の脆弱さ(バルネラビリティ)と自然災害が結合した災禍だ。被災3県は、従来から雇用と経済に不安定な部分があり(第一次産業と零細な食品製造業が主力)、医療機関・介護施設・保健師の数など社会サービスが心もとない状況にあった。かかるバルネラビリティが震災の打撃を大きくした。
 さらに、震災からの復興を困難にしているのも、社会が内包していたバルネラビリティ故だ。
 <例>雇用・・・・被災地のインフラ再生と同時に復興の軸となるのは雇用だが、日本では、いったん仕事を失った人々を再び安定した雇用に戻していく回路が極めて弱い。緊急雇用創出事業による一時的なつなぎ雇用や失業手当が途切れた後、生計の見通しが立たない被災者は実に多い。日本的経営、土建国家の雇用システムが根本から揺らぎ、徐々に雇用不安が広がりつつあったところに、激甚な自然災害が契機となって、雇用不安が集中的かつ破壊的な形で現実化した。

 日本社会が、急速に脆弱になったのは何故か。
 (a)戦後日本の生活は、男性稼ぎ主の雇用に依存していた。雇用機会が男性に偏る弊はあったが、失業率は低く、公的扶助の出番が少ない点で、この形は悪くなかった。しかし、日本がグローバル化の波に洗われ、雇用の揺らぎが広がると、男性稼ぎ主の安定雇用に頼りすぎていた社会の危うさが、一挙に露呈した。
 (b)職場は、「頑張れば必ず報いられた時代」から「頑張らなければ放り出される社会」になった。
 (c)家族の形も変わってきた。急速な高齢化、子どもを取り巻く環境の複雑化で、「妻」と「母親」の負荷が格段に高まり、女性たちにストレスが増大し、家族は新たな不安を生み出す源泉となった。

 この国の多くの人々は、いつ「弱者」にあってもおかしくない状況に置かれている。正規雇用か非正規雇用か、働いているのは管理部門か末端部門か、障害があるかないか、といった境遇の相違はもはや絶対的なものではない。今日の社会を覆い尽くすリスクは、人々の頭上に細い髪の毛一本で吊り下げられたダモクレスの剣のようなもので、こうしたリスク社会では、「利害による連帯」ではなく、「不安による連帯」への移行が求められるのだ(ウルベッヒ・ベック『リスク社会』)。
 生活に安心と活力をもたらすのは、まず就労して生活を維持するに足る所得を得られることだ。そして、所得が不十分だったり中断した場合、社会保障によって補足されたり、就労支援を受けられることだ。こうした雇用と社会保障の連携は、「生活保障」と呼ばれる。
 「不安による連帯」に基づいて、どんな社会を構築していくべきか。

 (1)全員参加型社会
 非正規雇用者を含めて現役世代がもっと社会の中に参加する。併せて、労働市場は見返りある処遇を準備し、働くインセンティブを高める。「ジョブ型正社員構想」など。

 (2)社会保障と経済の相互発展
 社会保障の重点を「参加保障」に置き、介護や医療部門での雇用と技術イノベーションを推進することで経済を発展させる。 

 (3)つながりの構築
 雇用と家族を支える生活保障を通じて、人とのつながりを守り、広げるため、地域の伝統的なつながりやNPOなどの新しいつながりを連携させていく。

 (4)次世代養成
 幼保一体化による就学前教育の整備により、女性たちを就労支援するとともに、子どもたちが将来、生き生きと社会に参加していく基礎能力を育てる。家族や地域の子育て力を高める公的支援が要請される。

 (5)税制と政治の変革
 こうした生活保障を実現していくための財源と政治の論点の一つは、税のあり方で、「掛け捨て型」から「貯蓄型」への転換だ。これまでの日本では、支払う税と受ける社会サービスの関係は、「掛け捨て型」だった。日ごろの租税負担率は米国よりも小さく、社会保障を利用するのはよほど深刻な事態に陥った場合だけだった。かつて安定成長期には、年金と医療以外には社会保障の世話になることはない、と考えている人が多数だった。
 しかし、今後の税と社会保障は「貯蓄型」にならざるをえない。誰もが保育、介護、就労支援などの社会サービスを生活のなかで当然のように頻繁に利用することになる。当然、税負担は増える。税は、いまや「第二の貯金」となるべきものだ。そのためには、行政が信頼性を高め、「税が還ってきた」と国民が実感できる仕組みを構築しなければならない。それこそ、政治の役割だ。

 以上、宮本太郎・編『弱者99%社会 ~日本復興のための生活保障~』の「序章」に拠る。
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【旅】彫刻の街 ~鑑賞者の存在意義・考~

2012年05月14日 | □旅
 米子駅前に始まり、そこから徒歩5分の米子コンベンションセンターやイオン米子駅前店、それらの先を流れる新加茂川沿いに北へ向かうと中海に出る。さらに中海を弓手に湊山の麓をまわり、湊山沿いに公園に至るルートに彫刻の群が立ち並ぶ。片道3kmほど。
 彫刻はいずれも、美術館などに閉じ込められていなくて、街の中にあるのがミソ。よって、一群の作品の写真を題して「彫刻の街」。

 こうしたマチづくりには少なくとも(あくまでも少なくとも)3種類のマチ人間が必要だ。例えば彫刻の道、彫刻のマチの場合、
 (1)彫刻する人
 (2)作品を味わう人
 (3)コーディネーター
 ・・・・(2)がいちばん気楽に見えるが、(2)にもけっこうエネルギーが必要だ。アランのように、鑑賞を哲学にまで高める人もいる。鑑賞もまた創造なのだ。そして、(1)と(3)に比べて圧倒的多数の(2)がいなければ、他は虚無だ。小松左京『こちらニッポン・・・・』は、古都の国宝級仏像をめぐって、そんな思考実験をしている。自画自賛するつもりは毛頭ないが、鑑賞する(だけの)人々は、遠慮なく胸をはっていいと思う。


 「こころの言葉」(佐善圭・作)

 「夏・風の詩(うた)」(須藤博志・作)


 「月に向かって進め’96」(井田勝己・作)


 「相」(前川義春・作)


 「’96 WORK IN YONAGO」(登坂秀雄・作)


 「OFFERING(捧げ物)」(ロバート・シンドルフ・作)


 「光」(近田裕喜・作)


 「ゆめについて」(林宏・作)


 「記憶の形象」(斉藤和子・作)


 「あかね雲」(西村文男・作)


 「水のかたち」(高濱英俊・作)


 「米伝説」(平井一嘉・作)


 「宿借り(海辺の物語)」(西巻一彦・作)


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【原発】確率論的安全評価の落とし穴 ~浜岡原発~

2012年05月13日 | 震災・原発事故
(1)浜岡原発の問題
 浜岡原発の問題は、安全基準に基づく「技術的判断」や、地元や国民の賛否という「社会的判断」の次元を超えて「リスク・マネジメント」の究極の問題を先鋭な形で政権に突き付けた。
 原発の安全性の議論において、「確率論的安全評価の思想」は適切か?
 すなわち、たとえ可能性が極めて低くとも、万一のときの被害が受容を超えるレベル甚大なリスクをどう考えるか?
 浜岡原発の問題は、単なる安全確認や安全対策の技術論を超えて、実は我々に「万一のとき、極めて重大で深刻な被害を与える可能性のある原発の安全性を、いかなる思想によって論じるか」ということを問うている。原発の安全評価の思想そのもののパラダイム転換を求めている。

(2)確率論的安全評価の思想
 「確率論的安全評価の思想」とは、ある出来事が起きたときの「被害の大きさ」(結果)だけを比較するのではなく、「起こる可能性」(確率)を含めて総合的に評価する思想のことだ。
 <例>Aという出来事が起こったときの「被害の大きさ」が、Bという出来事が起こったときの「被害の大きさ」の10倍だとする。Aの起こる可能性がBの10分の1ならば、AとBとは同じ「危険性」(期待リスク)を持つ。
 この思想には、大きな落とし穴がある。この確率論的手法は、「多数回の試行」をする立場の人間にとっては意味があるが、「1回限りの試行」をする立場の人間にとってはあまり意味がない。
 <例>重大な死亡事故が起きた場合、加害者は保険に加入していなければその事故だけで残る生涯を棒に振る。他方、保険会社は保険金5億円を支払っても、そうした重大な事故が起きる確率が1万分の1であれば、保険料1人当たり5万円で保険加入者が1万人以上あれば保険会社は倒産しなくてすむ。
 「事故の発生確率」を考えた「期待リスク」の考え方は、保険会社のように「数多くの事故」を対象として統計的に対処する立場にとっては意味があるが、「実際の事故」を起こしてしまった人間(たった1回の事故で残る人生を棒に振る人)にとっては、あまり意味がない思想なのだ
 今回の福島原発事故も同様で、たった1回の事故で極めて広域の放射能汚染を生じ、多くの周辺住民が生活を破壊し、無数の国民に不安を与えるような事故は、そしてその事故の収束と復興に数十年以上の歳月がかかり、膨大な国家予算を注入しなければならないような事故は、簡単に「発生確率は低い」という確率的論理や統計的論理で軽々に語ってはならない。
 千年に一度の確率であっても、起こってしまったとき、国家全体が危機に瀬するような事故については、「確率が低いから問題ない」という思想は間違っている。

(3)確率論的手法の限界と落とし穴
 じつは、上記の確率の評価そのものにも問題がある。
 1970年代初頭、ノーマン・ラムッセンMTI教授は、確率論的安全評価手法の「フォールト・ツリー分析」を使って、原発の確率論的安全評価を行った。周辺住民に被害をもたらすような大事故の起きる確率は、原子炉1基が1年間に10億分の1だ、と報告している。
 ラムッセン研究は理論的にも主峰的にも数多くの批判を浴びたが、その後の歴史を知っている我々には確率論的安全評価手法の限界を教えられた。このレポートが出た後、人類は、わずか32年間に、1979年(スリーマイル島事故)、1987年(チェルノブイリ事故)、2011年(福島事故)と3回もの深刻な事故を経験したのだ。
 さらに、確率論的手法には、もう一つ落とし穴がある。すなわち、「確率値の恣意的評価」だ。安全評価の結果を意図的に「十分に安全である」という結論に導くため、「確率値」を低めに評価するという落とし穴だ。
 ちなみに、リーマン・ショックも、「ローンが返済不能になる確率」を過小評価したことから起こった。「この金融商品がいかにリスクの少ない商品であるか」を顧客に説得するために、金融工学という最先端の数学的手法が利用された。
 よって、原発の安全性を論じる立場にある人間は、「確率論的安全評価の思想」の限界と「確率値の恣意的評価」という落とし穴について、深く理解しておかねばならない。

 以上、田坂広志『官邸から見た原発事故の真実 ~これから始まる真の危機~』(光文社新書、2012)に拠る。
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【原発】人的・組織的・制度的・文化的な安全性の問題 ~大飯原発再稼働~

2012年05月12日 | 震災・原発事故
(1)2つの「安全性」
 野田政権は「原発の安全性を世界最高水準まで高める」と言うが、「安全性」は次の2つが問われる。
  (a)「技術的な安全性」
  (b)「人的、組織的、制度的、文化的な安全性」
 (a)だけでなく、(b)を含めなければ「安全」を謳えない。なぜなら、世界で起こった原子力事故の大半は(b)の破綻によるからだ。
 <例1>軍事用試験炉「SL-1」(米国アイダホ州アイダホフォールズ)の事故・・・・人類史上最初の原発死亡事故。一説によれば、作業員が自殺を企てて制御棒を意図的に抜いて原子炉を暴走させた。
 <例2>JCOの事故・・・・JCOは、濃縮ウラン溶液の濃度を一定にする工程で、正式の作業手順である混合装置「貯塔」を使うと時間がかかる、という理由で、人の手でバケツを使って混合作業していた。しかも、作業を急いだ現場の作業員は、裏作業マニュアルさえ破って、小分けして沈殿槽に投入するべき高濃度ウラン化合物を一度に大量に投入したため、核分裂反応が発生したのだ【注1】。

(2)落とし穴 ~想定外・確率論・経済性~
 (1)-(a)には2つの安全思想があって【注2】、
 (a)“Fail Safe”(人間が操作を失敗しても安全が確保される)
 (b)“Safety in Depth”(一つの安全装置が作動しなくても他にも幾重にも安全装置が施されている)
がそれだが、これには危険な落とし穴がある。「想定外」という落とし穴だ。(1)-(a)でどれほど安全な対策を施しても、(1)-(b)の要因から技術者が「想定」していなかったことが起きる。技術者は、技術者が「想定し得る全ての事態を想定している」に過ぎない。
 そして、技術者の「想定」には、さらに恐ろしい落とし穴がある。「確率論」という落とし穴だ。極めて低い確率しか起こらない事態は、安全設計上は「想定」しないという結論にしてしまうのだ。
 この背後には、さらに「経済性」という恐ろしい落とし穴がある。「そうした事態は極めて低い確率でしか起こらない」という判断をするプロセスに「経済性」への配慮が混入するのだ。最悪の場合、「そうした危険な事態は起こるかもしれないが、まともに対策するとかなりコストがかかるから、起こる確率は極めて低い事態であることを理由に想定しないようにしよう」という「経済優先主義」の判断が混入してしまうのだ。
 福島第一原発事故も、調査が進めば、東京電力が落ち込んだ落とし穴が明らかにされるだろう。
 政界、財界、官界のリーダーが、もし本当に「原子力の安全性を世界の最高水準にまで高める」ことをめざすなら、(1)-(b)を徹底的に究明し、原子力行政と原子力産業を徹底的に改革しなければならない。技術的な安全対策をすればこうした事故は起こらない、という楽観論に陥ってはならない。

(3)行政機構の組織的無責任
 (1)-(b)は、事故原因だけでなく、「事故への対策」においても大きな問題だ。
 今回の事故において、政府も事業者も「絶対安全神話」を信じて、「実際に苛酷事故が生じたときの対策」がほとんど検討・準備されていなかった。これはまさに、(1)-(b)の問題だ。
 事故直後の3月13日、田坂は政府に2つ緊急提言を届けた。
 (a)直ちにSPEEDIを活用して放射能の拡散を予測する。
 (b)直ちに全国から放射線と放射能を測定する機器や設備を総動員し、徹底的な環境モニタリングを実施する。
 じつは(b)は、原子力安全技術センターが、事故直後すぐ行っていた。4基から放出されたデータが入手できなかったので仮の数値を入れ、その予測値を原子力安全・保安院に報告した。しかし、保安院と内閣官房の職員は、仮の数値による予測値は無用の混乱と誤解を招くとして、総理に報告しなかった。しかし、不正確な予測値であっても、風向、風速データからしてどの地域が危険な地域になるか、分かったはずだ。
 原子力安全技術センターも保安院も内閣官房も、職員はそれぞれの立場で「組織の職務」を行っているが、行政全体としては極めて無責任な状態になっている。こうした「行政機構の組織的無責任」の背景には、「縦割り行政の硬直化」がある。「横断的な仕事」が発生した場合、統轄する主体的組織がなかった。現在の行政機構には、国民の生命と健康、安全と安心を守るために、組織の領分を超えてでも行動するという職業意識と責任感、倫理観が希薄になっている【注3】。

 【注1】「【震災】原発>政権中枢が反省する事故処理の不手際 ~自民党の場合~
 【注2】「【震災】原発>国民の信頼を失った日本の原子力行政 ~7つの疑問~」参照。
 【注3】逆の例を挙げれば、現在の「行政機構の組織的無責任」が露わになる。・・・・1986年11月21日の三原山大噴火の際、後藤田正晴・内閣官房長官は、国土庁の鈍い動きに業を煮やし、中曽根総理に進言。その命令で内閣で処理することとした。そして、内閣は防衛庁、運輸省その他と折衝。最終的には38隻の艦船を伊豆七島・大島へさし向けた。ちなみに、国土庁は何をしていたかというと、関係19省庁の担当課長を防災局に集めて会議をしていた。議題1「災害対策本部の名称」。議題2「元号を使うか、西暦を使うか」、議題3「臨時閣議を招集するか、持ち回り閣議にするか」。そして、ダラダラと続いた「まさに官僚的な、被災者不在の的外れ密室会議」が23時45分にようやく終わった時、とっくに救出艦船団は大島に向かっていた。そして、翌日4時までに住民及び観光客13,000人は島を脱出した。【「【読書余滴】後藤田正晴回顧録(2) ~震災復興と危機管理~」】

 以上、田坂広志『官邸から見た原発事故の真実 ~これから始まる真の危機~』(光文社新書、2012)に拠る。
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【原発】政府が答えるべき「国民の7つの疑問」 ~信頼性~

2012年05月11日 | 震災・原発事故
 田坂広志・多摩大学大学院教授は、放射性廃棄物の専門家、2011年3月29日から9月2日まで、内閣参与として原発事故対策、原子力行政改革、原子力政策転換に取り組んだ。
 その『官邸から見た原発事故の真実』によれば、事故直後に首都圏3,000万人の避難も想定した、という。米国も最悪のシナリオを描き、首都圏の米国人9万人に対して避難勧告を出す寸前だった。米国がこの強硬意見を採用しなかったのは、避難勧告すれば日本人を含めた首都圏が深刻なパニックに陥る、という理由だったからだ。
 福島第一原発事故発生時で生じた冷却機能喪失による最大の危険は、4号機の使用済み燃料プールにあった。1~3号機は、まがりなりにも核燃料が原子炉内に入っている。しかし、使用済み燃料プールは何の閉じ込め機能もない「剥き出しの炉心」の状態だった。あの段階で新たな水素爆発が起これば、福島第一サイトで放射線量が上昇し、あるレベルを超えると人間が近づけなくなる。そして、大量の放射能が環境中に放出される。その可能性があった。そして、今もまだその可能性は残っている。
 最悪の事態をまぬがれたのは、単に「幸運に恵まれた」だけにすぎない。さらなる水素爆発は起こらなかったし、大きな余震も津波も生じなかったし、原子炉建屋や燃料プールのさらなる大規模崩壊も起こらなかった。
 「冷温停止状態の達成」は、冷温停止とは違う。そして、「冷温停止状態」は、今回の事故が我々に突き付けてくるさまざな問題の入口にすぎない。だから田坂は、政界・財界・官界のリーダーたちの「根拠のない楽観的空気」が現在の最大のリスクだ、と批判する。彼らの楽観的な気分は、国民の政府に対する「信頼」を決定的に失わせるからだ。すでに「絶対安全神話」の崩壊により、信頼が失われた。起こった事故への対応が、信頼喪失に追い打ちをかけた。原発再稼働に向けての「やらせメール」など組織文化的も問題も次々に浮上してきた。

 原子力問題において、もっとも大切なのは「信頼」なのだ。国民に政府に対する不信と疑心が広がれば、政府の国民に対する「安心」「安全」のメッセージは全く意味を失う。
 信頼を回復するには、まず、
 (a)「身を正す」ことだ。つまり、原子力行政の徹底的な改革を行わなければならない。次に、
 (b)「先を読む」のだ。つまり、工程表の作成といった当面の問題にとどまらず、汚染水の処理から「高レベル放射性廃棄物」の最終処分まで、長期的展望を示さなければならない。「高レベル放射性廃棄物」の問題は、原子力のアキレス腱で、「技術」を超えた問題だ。なぜなら、
 ①「未来予測の限界」という問題がある。「10万年後の安全」を科学と技術で実証することはできない。
 ②「世代間の倫理」の問題だ。地層処分は、未来の世代に負担とリスクを残すことを意味する。
 高レベル放射性廃棄物の最終処分という極めて難しい判断を国民に仰ぐために、政府に求められる絶対条件は、信頼だ。
 国民の信頼は、福島原発事故によって失われた。信頼を回復するには、前述の(a)と(b)が不可欠だ。
 しかし、政府は「問題が表沙汰になったとき、その解決に取り組む」姿勢(当面主義)をとっているように、国民の目に映る。そうした姿勢は、国民の政府に対する信頼を大きく損ねる。
 したがって政府は、福島原発事故後の日本がこれから直面する深刻かつ困難な諸問題について、いち早く、その全体像を明らかにし、それらの諸問題についての国民の疑問に、率先して答える努力をしなければならない。野田政権が国民に対して説明すべき疑問は、次の7つだ【注】。

 (1)「原子力発電所の安全性」への疑問
 (2)「使用済み燃料の長期保管」への疑問
 (3)「放射性物質の最終処分」への疑問
 (4)「核燃料サイクルの実現性」への疑問
 (5)「環境中放射能の長期的影響」への疑問
 (6)「社会心理的影響」への疑問
 (7)「原子力発電のコスト」への疑問

 【注】これら疑問の要点は、「【震災】原発>国民の信頼を失った日本の原子力行政 ~7つの疑問~」の「5)野田政権が答えるべき「7つの疑問」」参照。

 以上、田坂広志『官邸から見た原発事故の真実 ~これから始まる真の危機~』(光文社新書、2012)に拠る。
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【原発】「無責任の体系」 ~事故と官僚主義の連続(2)~

2012年05月10日 | 震災・原発事故
 (承前)

(3)生き続ける「無責任の体系」
 日本の政治は、丸山真男のいわゆる「無責任の体系」から一歩も抜け出していない。丸山は、満州事変から太平洋戦争の敗戦に至るまで、全体的な構図をもとに意思決定を行った主体が不在である点に、日本の戦争の特徴を見い出した。意図的決定者の有無が、同じ侵略戦争を起こしたドイツと日本の決定的な違いだ(丸山の指摘)。
 戦前、戦中の日本では、政策立案の当事者は、特定の誰かが邪悪な、あるいは壮大な意図を持って政策を推進したわけではない。個人的には疑義を持っても場の空気に逆らえず、戦争政策に追随した。主体的思考を放棄し、状況にその場限りの対応を重ね、破局はしだいに深刻化した。主観的願望が客観的事実認識を駆逐し、起きてほしくないことは起きないと信じ、戦況の悪化や会戦の敗北は転進と正当化した。指導者は、天皇の名の下に権力を行使し、最後の所では「國體」がこうした発想を正当化した。・・・・これが大日本帝国の指導者に瀰漫した無責任の構図だ。

 同じ構図は、通産省=経産省による原子力政策にもそのまま当てはまる。官僚は、自らの行動を国益追求と規定したがゆえに、異論を邪論として退け、あらゆる異議に耳をふさいできた。起きてほしくないことは、起きないこととされた。日本の原発が活断層の近くに立地し、地震や津波に対する備えに欠陥があることが指摘されても、戦況悪化を無視した陸軍参謀と同じく、作為的にこうした警告を無視し、あえて想定しなかった。原発による電力の安定供給こそ、官僚にとっての「國體」だった。
 民主主義は、彼らの善意や使命を妨げる障害でしかなかった。さもなければ、原子力政策の形成や実施の過程ににじみ出る民主主義へのシニシズムは説明がつかない。電源三法に基づく地元自治体に対する巨額の交付金は、札束攻勢によって地元の議論を封じ込め、地元自治体を原発依存に追い込む仕組みだ【注3】。地元自治体で政策論議をすることなど、まったく予定されていない。
 原発立地、原子炉の増設や運転に係る公開討論会/シンポジウムなどの場で、経産省や自治体の黙認の下に電力会社による「やらせ」が横行していたことが、福島原発事故後、明らかになった(民意の偽装の日常化)【注4】。これは、官僚や専門家が民主主義の仕組みを信じていないことの反映だ。
 マスメディアは、記者クラブの中で官僚と癒着し、大量の広告出稿によって大企業を自由に批判できない立場に自らを追い込んだ。かくして産官学の複合体に、メディアも加わった【注5】。

(4)官僚主義という宿業
 以上のような行動様式は、官僚主義、近代日本の宿業だ。
 (a)本来の目的の喪失、疑似目的への献身・・・・経産省の場合、本来の目的は経済の発展と国富の増加だ。原発はエネルギー面でそれを実現するための手段に過ぎない。しかし、役所が専門分化するにつれ、原発推進組織にとって原発推進が至上目的となった(G・W・オルポートのいわゆる機能的自律)。そして、原発拡大のための様々な手段の考察が彼らの任務となった。
 (b)外部からのフィードバックの遮蔽・・・・政策の枠組み、その基盤となっている現状認識が固定化され、その枠組みを崩すような現実には一切目を向けなくなった。現実に基づいて政策を立てるのではなく、政策に基づいて現実を裁断した。また、枠組みを崩すような現実を突きつける人の存在は無視したり抑圧した。
 (c)多様性の否定・・・・官僚は正しい目的の達成に貢献しているのだから、異論、異説は誤りとされだ。メディアも学界、本来は自由な議論の空間のはずだが、一様な情報、単調な発想で染められた。

 以上の3要素が重なるときに生じたのは、自己修正能力の欠如という病理、既存の枠組みを維持するために情報を捏造するという悪弊だった。諸外国が放棄した核燃料サイクルの構築(多額の国費を投入)維持、電力単価計算における原子炉稼働率の過大見積もり、立地対策向け費用、廃棄物処理・廃炉・事故補償の費用の捨象など、日本の原子力政策には様々な疑問が付きまとう。経産省も電力会社も、これらの疑問に正面から答えない。疑問を説明できるのは、上記の病理と悪弊だ。
 官僚主義の宿業を断ち切ることは、民主主義の欠如から抜け出すことだ。宿業を悪化させてきた自民党政権ではできないに違いない情報公開と責任追及こそ、民主党の使命だ。
 今ここで民主主義を再生させなければ、十五年戦争の末期と同様、官僚主義の宿業によってさらに多くの生命と生活が脅かされることになる。大震災と原発事故によって、戦後日本の政治と行政が内臓してきた腐敗が露見したのは確かだ。

 【注3】例えば、「【震災】原発>破綻した核燃サイクル ~防災範囲はたった5kmの六ヶ所村~
 【注4】例えば、「【震災】原発>九州電力のガバナンス不全症候群 ~経営者の暴走~
 【注5】例えば、「【震災】原発>「権力の動き=ニュース」という錯覚 ~大手メディア~

 以上、山口二郎『政権交代とは何だったか』(岩波新書、2012)の「第6章 民主主義のシニシズムを超えて」の「2 原発事故と官僚主義の連続」に拠る。
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【原発】原子力ムラという軍産複合体 ~原発事故と官僚主義~

2012年05月09日 | 震災・原発事故
(1)原子力ムラは軍産複合体
 戦後日本が追及してきた原子力政策は、福島第一原発事故で破綻した。
 様々な分野で、「政官業の鉄の三角形」による利益配分政治が見られた。監督官庁と業界が、天下りや規制・助成を通して結びつき、そこに族議員も関与して既得権を温存する共同体を作ったのだ。
 電力業界も、もちろん鉄の三角形の一例だ。が、事故を契機に広く知られるようになった原子力政策の歴史からすると、一業界が官僚と結託して利益を守った、というレベルの話ではない。国家権力の所在に関わる大きな問題だ。
 事態は、むしろ日本版の軍産複合体の暴走がもたらしたものだ。軍産複合体という言葉は、米国のアイゼンハワー大統領が退任演説の中で初めて使われた。莫大な軍備と巨大な軍事産業との結合は米国史上初めてのことだ、委員会等における軍産複合体の影響力を排除しなければならない、「警戒心を持ち見識ある市民のみが、巨大な軍産マシーンを平和的な手段と目的に適合するよう強いることができるのです。その結果として安全と自由とが共に維持され発展して行くでしょう」。
 アイゼンハワーは、軍人の頂点まで上がったから、政治家、官僚、軍部、軍需産業が結託して民主主義を壟断する危険性が分かっていた。同時に彼は、学者がこの複合体の中に巻きこまれる危険をも予言した。科学者は、莫大な資金が絡むと、知的好奇心より政府との契約が優先する、公共政策そのものが科学技術エリートの虜となる、云々。
 もともと原子力発電は冷戦時代に拡大した核兵器の開発と密接に関係した技術だった。だから、原発をめぐる政官業の結合に軍産複合体のモデルを当てはめて、何ら差し支えない。アイゼンハワーの予言は、原発事故によって明らかにされた経産省、電力業界、原子力工学の世界、そしてメディアの密接な関係を言い当てている【注1】。

(2)福島原発メルトダウンが明らかにした権力構造
 原子力分野の鉄の三角形/原子力ムラは、かくも犯罪的なことを国策の名の下に行ってきた。これは民主政治に対する脅威だ。
 リンカーンは、民主主義を「人民の(of)、人民による(by)、人民のため(for)」の政治と定義した。ここで問題となるのは、“by”と“for”の関係だ。人民が自分にとっての利益を的確に理解することができれば、“by”によって“for”を実現できる。しかし、人民がそのような判断力を持たず、わざわざ自分にとって最悪の選択をする事態は、歴史上しばしば起こった(<例>ヒトラーの台頭)。まして、現代のように専門的科学技術が急速に発達し、一般市民には理解不能な知識・技術体系に基づいて政策を立案、実行するようになると、どのような政策が自分たちのためか、人民自身で判断するのが極めて困難となる。
 そこで、官僚や学者などの専門家が、我々が決めてあげる、と乗り出す。それが、全部が全部悪いわけではない。専門家を信頼し、様々な技術を利用するのでなければ、現代の文明的な生活が成り立たない。ここで政府は、一般市民に代わって専門家の仕事が安全で有益なものかどうかをチェックしている(はずだ)。
 しかし、専門家に任せきりにすると、別の問題が起こる。
 (a)一般市民の無知をいいことに、専門家が安全や便利さを脅かす「問題」や「敵」を作りだし、それを解決するために自分の領域により多くの予算や権力を引き込もうとする(<例>軍産複合体)。
 (b)専門家が本当に専門能力を持っているか、疑わしい場合もある。③官僚や学者の権威を用いて、専門的知見の裏付けのない政策を正当化し、そこに資源をつぎ込む事例もある(<例>原子力発電)。この場合、“by”の契機は封じ込まれ、もっぱら官僚や専門家が“for”の中身を定義することとなる。
 ここで、“for”は二重の意味を帯びる。①「国民のために」という看板の下に、②「国民に代わって」政策を立案、実行する体制が構築されるのだ【注2】。日本の場合、明治以来、強力な官僚組織が存在していたから、人民に代わって英明なエリートが政策を立案、実行する仕組みが戦後も容易に成立し、持続してきた。
 その典型例が原子力政策なのだ。経済の発展と豊かな生活のためには電気が不可欠で、電力を供給するためには原子力発電が最も安価である・・・・という図式を、官僚と専門家が作って、メディアがそれを広め、国民はそれを信じてきた。
 こういう政策の立案、実施の過程では、異論は徹底的に無視、封殺されてきた。学者・専門家やメディアが動員され、「国民のため」の政策を宣伝することに加担してきた。民主主義の欠如という病が進行したのだ。

 (続く)

 【注1】例えば、「【震災】原発>公金と利権 ~政官財学マスコミ癒着の構図~
 【注2】「【震災】原発事故にみる戦後デモクラシーの欠落 ~for the peopleの二重性~
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【社会保障】民主党による政策転換(2) ~年金政策~

2012年05月08日 | 医療・保健・福祉・介護
 (承前)

(3)失敗事例 ~年金~ 
 「成功事例」がJD「障害者総合支援法案への日本障害者協議会の見解」のような結果ならば、失敗事例は推して知るべし。

 (a)2007年、「消えた年金記録」問題が発覚し、5,000万件の記録漏れが明らかになった。政権交代時、1,700万件が未解決のまま残された。野党時代の民主党は、長妻昭議員が中心となって政府を追及し、国民の共感を呼んだ。これは同年の参院選における民主党躍進の一因となり、さらに政権交代の引き金となった。民主党のマニフェスト(2009年)にいわく、
   ①「コンピューター上の年金記録と紙台帳の記録の全件照合を速やかに開始し、コンーピュター上の記録の訂正・統合を行う」。
   ②全加入者に「年金通帳」を交付し、いつでも自分の年金記録(標準報酬月額を含む)を確認できるようにする。

 (b)長妻は、鳩山政権の厚生労働大臣に就任し、消えた年金問題の解決に全力を挙げる、と強調した。しかし、たちまち現実の壁にぶつかった。
   ①2009年12月、コンピューター上の記録と過去の紙台帳記録8億5,000万件との照合は、2013年度までに全件照合完了という目標を見直した。2010、2011年度に全体の7割(6億件)の照合を行う計画だったが、これを2億件程度に引き下げた。予算確保の難しさ、費用対効果が低いことが要因だった。最終的に照合できるのは、半分以下にとどまる見込みとなった。
   ②年金通帳も、2010年度からの導入を断念することになった。そして、2011年10月、「年金通帳」を断念し、代わりに日本年金機構の「ねんきんネット」利用を促進することとした。

 (c)消えた年金記録問題は、長年の政府の怠慢の帰結だが、民主党政権は年金に係る新たな問題を作りだした。第三号被保険者の取り扱いだ。
   ①夫が退職して自営業に移ったり、死亡・離婚した場合には、妻は国民年金に加入しなければならない。が、この制度は十分周知されていなかった。「三号からの変更漏れ」のため、年金受給資格を満たさず、結果的に無年金となったり減額支給となった人が出ていた。こうした状況にある人が100万件以上存在することが、民主党政権下、2011年1月に判明した。
   ②厚労省は、届け出を忘れた場合でも、直近2年分の保険料を支払えば、それ以前の未納分は不問に付し、該当する人々を国民年金加入者とみなす、という救済策を採った(「運用三号」)。2011年1月30日現在、2,331人に適用された。しかし、総務省年金業務監視委員会が、制度を理解し適正に保険料を納付した人々との間で大きな不公平が生じる、と批判し、政治問題となった  
   ③しかも、「運用三号」は、法律改正ではなく、厚労省の課長通達によって決定された。民主党が唱えてきた官僚支配の打破とまったく逆行する政策立案が、官僚によって進められていたのだ。100万件以上の大きな問題で、しかも年金の公平性の観点からも慎重に検討すべき案件に、「運用三号」はいかにも官僚の考えつきそうな弥縫策だった。官僚制研究の「法則」がここにも顕れた。既存の制度の中で問題が発生した時に、大規模な法律改正や新規立法を回避し、既存の法令の解釈変更など小幅な変化で対応する・・・・「運用三号」は、まさにルーティンの範囲内で問題を糊塗するものだ。2011年1月27日付け厚労省年金局事業管理課『「運用三号」職員向け「Q&A」集』でも、想定問答として「法律改正によって措置すべきではないか」という質問を立て、それに対して、法律改正に要する長い時間と大きな手間をあげて、行政上の通知によって関係者を救済することを正当化している。
   ④2011年3月上旬、民主党政権は、世論の批判を受けて「運用三号」の扱いを停止し、保険料の遡及的納入の機関を大幅に拡大するなどの法律改正に取り組む、とした。しかし、3・11によって、議論は途絶したままだ。

 以上のように、民主党政権の年金制度の管理、運用は失敗の連続だった。
 (ア)消えた年金記録問題では、作業の膨大なコストを想定せず、容易な公約を宣言した。
 (イ)国民年金に未加入の大量の元三号被保険者が浮かび上がった時、「公平性」と「関係者の救済」という相矛盾する課題に直面しても、自ら理念を立てて国民を説得する政策を打ち出せなかった【注】。運用三号の失敗は、民主党の政治家が重要な政策の本質について十分に理解しないまま、運用を官僚に任せていたことが原因だった。

 【注】理念の欠如は、「社会保障と税の一体改革」に甚だしい。2030年頃には厚生年金の積立金が枯渇する。が、民主党はヴィジョンを欠いているから、公的年金制度の改革に手をつけることができない。【「【年金】持続する制度とするために必要な改革」】

 以上、山口二郎『政権交代とは何だったか』(岩波新書、2012)の「第3章 政治主導による政策転換の成否--なぜ失敗し、どこで成功したか」に拠る。
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【社会保障】民主党による政策転換 ~母子政策と障害者政策~

2012年05月07日 | 医療・保健・福祉・介護
 民主党政権は、「国民の生活が第一」というスローガンの下に発足した。よって、社会保障・社会福祉は最重要課題に位置づけられるはずだ。この分野でも、成功例と失敗例が対照をなす。

(1)成功事例1 ~生活保護/母子加算~
 小泉政権時代の2003年、「骨太の方針」に生活保護の見直しが明記され、母子加算は16歳以上の子どもでは2006年末、15歳以下では2009年3月末で支給が打ち切られた。これは、社会保障費の伸びを抑制する小泉改革の一環として実行された。母子加算廃止は、血も涙もない構造改革のシンボルとなった。反対運動が起こったが、厚労官僚は予算がないという理由で陳情に取り合わなかった。
 政権交代実現後、与党は直ちに母子加算復活に着手し、法改正を伴わないが、予備費を流用した予算措置によって母子加算の復活にこぎつけ、2009年12月1日から支給が再開した。財務省は、手当額の引き下げや高校就学援助の廃止を求めて与党の方針に抵抗したが、最終的には与党の方針どおり58億円の予算が確保され、10万世帯に加算額が支給された。
 予備費でカバーできる程度の少額だったことも相まって、政府与党が「生活第一」への転換を印象づける第一弾として強い決意で政策形成に臨み、2ヵ月の時間を要したものの、財務省の反対を押し切って実現した。

(2)成功事例2 ~障害者政策~
 小泉構造改革の中で、障害者自立支援法が制定され、障害者の受益者負担が強化された。障害者団体は、この制度が「自立支援」という看板に逆行する、と強く批判したが、厚労省は法律で決まったこと、予算がない、などと、けんもほろろに取り合わなかった。
 民主党政権は、鳩山首相のいわゆる「出番と居場所のある社会」を実現する際の柱として、障害者を社会的に包摂し、活動の場を創り出すことを目指して、新たな法制度の創設に取り組んだ。
 そのために、包括的な政策論議の機関として、「障がい者制度改革推進本部」が設置された。さらに、同本部の下に総合福祉部会が置かれ、厚労省が部会の事務局を担当することとなった。この会議は、障害者権利条約の基本精神である「私たち抜きに私たちのことを決めるな!」という標語を基本理念として、法案の検討を進めた。
 この会議の委員は、障害当事者が半分以上を占めた。身体、精神などの従来の障害に加えて、発達障害など最近社会的に認知されるようになった新たな障害者の支援団体代表も参加した。委員の一人の中西正司らが唱えた当事者主権の理念(中西正司/上野千鶴子『当事者主権』、岩波新書、2003)民主党における障害者政策の基本とされた。
 政府は、2010年6月29日、閣議決定で、推進会議の「第一次意見を最大限に尊重した「障害者制度改革のための基本的な方向について」を定めた。その中で、応益負担の原則廃止、制度の谷間のない支援の提供、個々のニーズに基づいた地域生活支援体型の整備などを内容とする「障害者総合福祉法」(仮称)の制定に向け、第一次意見に沿って必要な検討を行い、2012年常会への法案提出、2013年8月までの施行を目指す、という方針を決定した。
 そのための第一段階として、障害者基本法の改正が図られた。2011年7月、改正案が全会一致で成立した。改正障害者基本法の要点は、次のとおり。
 (a)目的は「障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会を実現する」。
 (b)建物や制度、慣行、観念などによる制約も「障害」とする。
 (c)障害のない人との地域生活を妨げない。※
 (d)手話を言語と認め、手話通訳などの確保を進める。※
 (e)障害のない児童・生徒と共に学べる。※
 (f)医療・介護を身近な場所で受けられる。※
 (g)司法の場で障害の特性に応じた意思疎通の手段を確保する。
 (h)災害などで情報が早く的確に伝わるようにする。
 (i)障害者や有識者らでつくる障害者政策委員会を新設する。
 改正法では、従来の障害の定義が拡大され、発達障害なども政策の対象になった。国や自治体には、(c)(f)のような配慮をする努力義務が課せられた。その意味で画期的な立法と言える。
 ただし、法律の条文に「可能な限り」という文面が付加された(「※」の条文)。
 最終局面で、冷や水を浴びせられた。政治も期待外れだった。【藤井克徳・日本障害者協議会常務理事推進会議議長代理】
 障害者団体側からすれば、「可能な限り」という文面は政府の怠慢や不十分な施策の言い訳に使われるおそれがある。他方、政府は、努力義務にとどめておかねば訴訟で怠慢を追及されるリスクがある、と考えたのだ。この対立は、政策転換をめぐる行政と、要求する当事者側の食い違いを反映する。およそ、政治の世界には常につきまとう問題だ。
 従来の障害者政策を転換し、当事者の声を反映させたものに改革する、という意味では一歩踏み出した、と言える。問題は、基本法の改正を踏み台として、障害者自立支援法の改正につなぐことができるかどうかだ。その点、民主党の力量が問われることになる【注】。

 【注】はたして、民主党政権は、総合福祉部会で議論を重ねて集約した提言を骨抜きにして、骨抜き法案を第180回国会に上程した。現行の障害者自立支援法の廃止を経る新法ではなく、現行法の一部改正だった。総合福祉部会が2大指針としていた障害者権利条約や障害者自立支援法違憲訴訟に伴う基本合意文書とは相容れず、総合福祉部会の総意で取りまとめた骨格提言ともほど遠いものとなった。【日本障害者協議会「障害者総合支援法案(2月29日民主党政策調査会厚生労働部門会議案)への日本障害者協議会の見解」】
 そして、4月26日の衆議院本会議では、わずか14分で、消費税率引き上げ法案など社会保障と税の一体改革に関連する法案を審議する特別委員会の設置について採決し、同時に「地域社会における共生の実現に向けて新たな障害保健福祉施策を講ずるための関係法律の整備に関する法律案(180国会閣68)」も一切の審議もなく、起立多数で可決した。

 (続く)
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【政治】民主党の政策転換 ~成功事例・失敗事例~

2012年05月06日 | 社会
 「政治主導」は十分な成果を上げたとは言いがたい。他方従来の自民党政権の下では起こりえなかった政策転換や新規政策の形成も進んだ。この意味を過小評価すべきではない。
 ここでは税制を取り上げる。このテーマは、環境、産業。社会保険など様々な政策が交錯する分野だ。一分野でありながら、民主党における政策形成の全体像を見ることができる。

(1)租税政策の形成システム
 自民党政権時代には、(a)党税制調査会と(b)政府税制調査会の2つの機関が税制に関与していた。特に実権を持ったのは(a)で、各種業界からの陳情を受けて、税の減免を利益政治の道具としていた。
 かかる仕組みは不透明で腐敗の温床になると批判してきた民主党は、政権交代後、(a)党税調を廃止し、財務大臣の下に(b)政府税調を置き、(b)に関係閣僚を入れて税制改正の原案を作ることになった。(b)の中に、①納税環境整備、②雇用即税制、③)租税特別措置、④市民公益税制の4つのテーマについて、与党議員からなるプロジェクトチームが置かれた。野党時代から民主党の税財政を専門とする議員は、議論を重ねてきたことが、税財政に係る政治主導を可能にした。
 ①納税者の権利擁護、課税紛争に係る公正な処理手続きの確立が現実の法改正の課題として提示された。
 ②企業が雇用を増やすことへのインセンティブを税制面から提供することを課題とした。
 ③特定業界の利権となった租税特別措置を洗い出し、公平、公正な税制作りは見種痘の租税政策の柱だった。
 ④NPOなどの一定基準を満たす市民活動に対する寄付金控除の創設を目的とした。

(2)成功事例
 (a)NPO法人に対する寄付の優遇税制は、自民党政権下で制定され、2001年10月に施行された。しかし、優遇を受けるための認定条件が厳しく、実際に恩恵を受けられるNPO法人はごくわずかだった(制度創設から1年間に認定を得たのは全国約8,700のうち9件)。また、優遇の規模も、税額控除(納税額から寄付金額を差し引く)を求める声が高かったにも拘わらず、所得控除(課税対象所得から寄付金額を差し引く)にとどめられた。財務省が、歳入の確保を優先し、かつ、予算配分権限を一般国民に分与することに抵抗し、省益を守ろうとしたからだ。
 (b)2011年末、税制改正で寄付金の5割を税額控除する新しい税制が決定された。
 (c)この外にも、納税者権利憲章の策定、国税通則法の改正による更生や調査手続きの改善についても具体的な成果が上がっている。
 (d)(b)の成功の理由
   ①首相が政権の看板政策と位置づけ、強い決意を持って推進した。施政方針演説での強調、首相直属諮問機関「新しい公共円卓会議」の設置など、政治的キャンペーンを重ね、世論の支持も引きつけた。
   ②野党時代からの議論の蓄積と、NPO法人との連携。寄付税制の場合、益者はNPO、抵抗勢力は財務省主税局とアクターが限定されている。この構図の中で、官邸は一般的な世論と具体的な運動体という両面のエネルギーを引き出しながら、政策形成の流れをコントロールすることができた。
   ③なお、(c)についても、利害関係者が納税者と財務省・国税当局という限定されたものであり、民主党が野党時代に培った議論や専門家からの支援が、財務省を動かす際の権力資源となった。

(3)失敗事例
 (a)温暖化対策は政権交代のシンボルになった。しかし、具体的な温暖化対策を立案、決定することは困難だった。
 (b)民主党は、野党時代から環境分野のNGOと密接な協力関係を持っていた。温暖化対策の目標設定は政治主導で進められた。
 (c)他方、民主党はマニフェストで揮発油税暫定税率の廃止を目玉公約としていた。ガソリンを安くすれば当然消費が増え、二酸化炭素排出量が増加する。よって、化石燃料への課税をどうするかは、政治的な難問だった。
 (d)加えて、環境関連税制については、産業界、輸送業界、エネルギー業界、およびそれらの分野の労働組合など、利害を異にする多様な利害関係者が存在した。自民党税調とは異なる仕組みの中で、多様な利害をどのように調整し、結論に達するか・・・・2010年度税制改正の作業に関して、すでに民主党流の調整システムの限界を指摘する報道もあった。
 そもそも民主党は、温暖化対策として3つの柱を訴えていた。①国内排出量取引制、②地球温暖化対策税(環境税)、③固定価格買取制度。
 ③は、2011年8月、菅政権の下で成立した。
 が、①は産業界から強い判定を受け、推進側の環境省と反対側の経産省の対立も深刻だった。年末まで調整はもつれたが、結局、政府は産業界に配慮して、制度導入を先送りを決定した。
 また、②は、2009年11月には環境省が1兆円を超える規模の税創設を提言していたが、2010年秋から暮にかけての税制改正の中では、結局、石油石炭税の税率を5割引き上げ、4,800億円から7,200億円に増税することで落ち着いた。温暖化政策としての性格は希薄になり、民主党を支持していた市民団体から批判を招いた。他方、揮発油税暫定税率が維持されたまま、さらに石油石炭税の増税が決まったことで、燃料関係の税負担が一層増えることに関連業界は強く反発した。
 (e)失敗の理由
   ①温暖化対策の形成過程において、民主党は社会における利害対立に直面し、翻弄された。自民党政権時代とうって変わって、各業界は労組と共同してロビイングを行うようになった。<例>鉄鋼、造船、機械など。また、トラック、タクシーなどの運輸。
   ②党・・・・支持団体のこうした動きに呼応して、自民党とは異なった意味での族議員が発生した。民主党の政策調査会(参加資格に制約がない)で、環境税など業界の利益に大きく影響する政策の調整作業において、しばしば産別組織の支持を受けている議員が参加し、各論反対を唱えた。小沢幹事長の時代には、自民党と同様に、業界ごとに陳情の受け皿となる議員連盟が整備されていた。各種の議員連盟も、組合出身議員とは別に、エネルギー関係の租税特別措置の維持など個別利益の擁護に向けて動いた。
   ③政府・・・・省庁横断的な課題の調整は、副大臣級の会議によって行われた。副大臣会議は、自民党政調会議とは異なって、政治家と業界の癒着という問題からは自由だったが、会議は非公開で不透明だった。また、副大臣は各省庁の利益を背負って議論に参加していた。環境対策をめぐる環境省と経産省の対立は、民主党政権でも乗り越えられなかった。
   ④要するに、民主党自体に業界ごとの縦割り体質が存在し、温暖化対策の強化という理念は浸透していなかった。社会レベルで利害対立をはらむ問題について、陳情や要望の圧力に曝され、それを乗り越えて決着する能力を民主党は発揮できなかった。また、与党内、政府内における政策調整の仕組み、手続きが不明確なことも、議論の混迷を大きくした。

 以上、山口二郎『政権交代とは何だったか』(岩波新書、2012)の「第3章 政治主導による政策転換の成否--なぜ失敗し、どこで成功したか」に拠る。
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【政治】財務省による民主党の操縦 ~事例2つ~

2012年05月05日 | 社会
(1)事業仕分け
 メディアが大きく取り上げ、人々の喝采を浴びた事業仕分けも、財務官僚にとって都合のよいものだった。
 まず、何より、事業仕分けの対象となった事業の選択、それに関する情報の整理は、民主党の政治家にとって手に負えない仕事だ。事業仕分けの段取りの段階で、財務省によるお膳立てが存在した。
 効果の疑わしい事業に対する財政支出を削減することは、正しい。
 しかし、そもそもなぜ効果の疑わしい事業に予算がつけられたのか、を問うことなしに事業仕分けをするのは、モグラ叩きのようなものだ。事業仕分けが必要だ、ということは、従来の予算査定、予算編成に間違い、欠陥が存在したことを意味する。仕分け人は、事業を行ってきた各省の担当者を厳しく査問したが、誰がそんなずさんな予算査定をしたのか、と糾弾した例は皆無だった。
 事業仕分けを推進した仙石由人・行政刷新担当大臣は、事業仕分けは既存の会計検査と総務省による行政評価の不十分さを明らかにした、と述べた。しかし、仙石は予算査定の欠陥に言及しなかった。予算査定の欠陥に言及しないこと自体、事業仕分けにおける財務省の影響力を反映している。

(2)福島第一原発事故に係る東京電力の賠償スキーム
 東京電力の巨額の賠償をどのように調達するかは、国民全体にとって大問題だ。
 菅政権は、東電をそのまま残しつつ、東電の資産処分、国からの交付国債(=一時的な借金の国による肩代わり)、電力会社からの拠出でまず対応し、不足すれば電力料金の値上げによって調達する、というスキームを決めた。
 経産省のいわば主流の課長から、報道されている東電救済案は、税金投入したくない財務省主導の案で、経産省としては東電が何が何でも守る気持ちはない、と河野太郎・衆議院議員に打ち明け話があった。【河野議員のブログ、2011年5月6日】【注】
 税金を投入したくない、というのは、国民の立場を慮った天晴れな姿勢と見える。が、実は違う。賠償原資としては、株式の100%減資、金融機関の債権放棄、電力関係の特別会計等の積立金取り崩しなど、様々な手段がある。それらを合わせれば数兆円は確保できる。ところが、今回の賠償スキームでは、それらの手段については一顧だにされていない。
 河野の紹介した経産官僚の言い分が本当かどうか分からないし、経産省も省益を守ろうとしているのかもしれない。それにしても、大口株主や貸し手である金融機関の保護や特別会計等の埋蔵金の温存は、財務省の省益の反映だ。

 別の事例として、消費税率引き上げの論議がありうる。菅直人、野田佳彦と2代続けて首相が消費税率の引き上げに熱心なのは、財務官僚の洗脳の成果だ、という論評がメディアに溢れている。
 ただ、そうした議論をしていては、これからの財政や社会保障の議論が昏迷するだけだ、という副作用もある。   

 【注】「全ては監査法人次第か」(「ごまめの歯ぎしり」)

 以上、山口二郎『政権交代とは何だったか』(岩波新書、2012)の「第2章 統治システムの構築をめぐる試行錯誤」に拠る。
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【出雲】神話と政治/出雲国造 ~八束水臣神津野命の正体(2)~

2012年05月04日 | 震災・原発事故
 (承前
(4)国引き神話
 (a)初源期の出雲国は、日本海に面した小さな「初国」「稚国」だった。「大海」の荒海がこの国の海岸を洗っていた。
 (b)八束水臣神津野命(ヤツカミズオミヅヌノミコト)は、まず朝鮮半島南部に占地した新羅国の領域の出っ張りの土地を、広い鋤で、大魚の鰓を切り裂くように割いて、三つ編みの網を掛け廻らし、引っ張ってきて、小さな「初国」「稚国」に縫い合わせた。かくて、去豆(現・小津浦)から西の杵築の御崎(現・日御碕)までの山地部分が誕生した。当時、新羅はヤマト政権と対立する状況にあり、出雲から見て西北に位置する新羅はもっとも近い異国だった。
 巨大な土地を引っ張った綱は薗の長浜(現・薗の松山)で、綱をつなぎ留めた杭は佐比売山(現・三瓶山)だった。出雲と石見両国の国境を画する三瓶山は、宍道湖上から明瞭に見える。三瓶山は出雲国に属する山だ、という意識がこういう形で顕在している。
 (c)北門の佐伎の国(現・隠岐島島前海士町崎)を割いて引き、縫いつけて「狭田の国」(現・島根郡西部/秋鹿郡東部地域)を成した。
 (d)また、北門の良波の国(現・隠岐島島後の一部)を同様にして「闇見の国」(現・島根郡東部地域)を成した。
 (e)仕上げに、高志の都都の三埼(現・能登半島突端部あたり)から引いて、「三穂の埼」(現・美保関一帯)を成した。綱は夜見の嶋(後に本土とつながって弓ヶ浜半島の一部となる砂嘴)で、綱をつなぎ留めた杭は火神岳(現・伯耆大山)だった。古い時期の出雲国は、大山をも包含する領域に広がっていた。
 (f)かくて島根半島が誕生し、「入海」が生まれた。国引きを終えた臣神津野命は、郡家の東北に隣接する意宇杜にやってきて、杖を衝き立て、「意恵」という言霊を発っした(意宇の地名の由来)。

(5)八束水臣神津野命
 (a)『古事記』の淤美豆奴神は、出雲の在地神で、スサノヲ命の4世末裔、大国主命(大穴牟遅神)の祖父だ。
 (b)『古事記』では落ちている冠称「八束水」は、掌で掬いとれるほどの量の神聖な水の意。
 (c)八束水臣神津野命は巨人だった。(b)の掬いとる水の量も膨大だった。巨人伝承の属性は、一ヵ所に定着する前は、各地を巡回・漂泊したことで、国作りの神はその地域の人々にとっては巡行神・客神(マレヒト)の性格を持った。国作り、農耕に関与したのだ。
 (d)八束水臣神津野命は、鎮座すべき土地=国を持つ神ではなかった。この神が鎮座していることを示す神社は、古代の文献にはまったく認められない。臣神津野命が鎮座した場所は、『風土記』には記されていない。
 (e)八束水臣神津野命は、巨大な水の神だった(「臣神津野命」=「大水主神」)。
 (f)『風土記』や『延喜式』神名帳には記載の見えない富神社(簸川郡斐川町富村)の付近は、古代出雲郡出雲郷の中心地で、古山陰道が走行していた(推定)。その富神社の祭神が八束水淤美豆奴命なのだ。この地域が、八束水臣神津野命の本源の地だ。
 (g)出雲郷の神が、出雲全域をカバーする国引きの神に変質した。つまり、八束水臣神津野命は、地域的な水神から、「入海」を神体とする巨神に変貌した【注1】。
 (h)ちなみに、国引きの東方の端の舞台は弓ヶ浜(旧・夜見ヶ浜)、西の端が薗の松山だ。八束水臣神津野命=「入海」の神という説に矛盾しない。

(6)政治
 (a)『風土記』が作られた頃の出雲国には、すでに島根半島は厳然と存在していた。その時代より古い時代には島根半島は島で、その海峡を通じて「入海」は日本海と繋がっていた。簸川平野に注ぎこむ斐伊川・神戸川の土砂が海峡部分に堆積して島根半島が形成された【注2】。
 (b)西出雲の斐伊川下流域低湿地で祀られていた「厳藻(イツモ)」を聖なる神格とする水神の奉祭勢力は、弥生時代以来この地方を支配した首長集団だった。支配領域はイツモ国だ。後に出雲国造に就く出雲臣一族も、この水神の信仰を継承し、自分たちの祖先神として祀った。
 (c)風土記』総記によれば、八束水臣神津野命は「八雲立つ」出雲国の命名神だ。
 (d)『風土記』意宇郡条は、地名の由来を語って、八束水臣神津野命が出雲を最初に作った神と位置づける。古代の国作りは、国生み、国引きの2つの創造の仕方があった。『日本書紀』のそれは前者だが、『風土記』は後者だ(縫い足す)。なお、『風土記』出雲郡杵築郷の条にも同様の所伝が見られる。
 (e)神話では、国引きによって島根半島全体が完成し、「嶋根」と名づけられた。ところで、国引き詞章とは別の嶋根郡がすでに存在していたのだが、『風土記』は周到にも、臣神津野命の言霊によって嶋根郡の郡名が定められたとする。島根半島東部は「狭田の国」とは違う地域首長の領域だった可能性があり、「闇見の国」という国名はそうした古いクニの存在を窺わせる。
 (f)臣神津野命の国引きは、意宇郡を本拠地としていた出雲国造の出雲統治に引きつけて描かれている。『風土記』の国引き神話は、出雲国出雲臣広嶋の吟味と点検をへて採用された伝承だったことに留意しなければならない。要するに、国引き神話は、出雲国造出雲臣一族の現実の出雲支配を正当化するために創作された。
 (g)6世紀に国造制が出雲に導入され、大穴持命や熊野大神の祭祀がヤマト政権の手でこの地に持ちこまれた。イツモ国の在地神・祖先神の信仰を前面に押し出せなくなった出雲国造は、4大神の神領に抵触しない空間に、巨神の鎮座する聖域を設定した。4大神/4神名火(樋)を四方の柱に見立て、神座を「入海」に置いた超巨大な神殿を造型したのだ。
 (h)『風土記』の国引き神話は、出雲国造の「出雲国」全土に対する支配権力の確立を前提に語り出された。国造は、八束水臣神津野命を原初の出雲国創成神に位置づけることによって、この神こそが出雲にとってもっとも神聖で枢要な存在であることを印象づけようとした。「八雲立つ出雲」という新たに語り出された神語は、古い起源を持つ水神の言葉であることを根拠として、国造の出雲支配を正当化する役割を担うことになった。

 【注1】「八つ芽生す 厳藻」→「やつめさす出雲」。『風土記』総記の「八雲立つ出雲国」も、『古事記』景行段の歌謡に出る「やつめさす 出雲建の 佩ける太刀」も、出雲国号の成立に関係する重要な祭祀のなかで生まれた。
 【注2】その後、斐伊川は、簸川平野を北から西へ屈曲して流れ、その流末は『風土記』の「神戸水海」に注いだ。ところが、斐伊川は暴れ川だった。しかも上流部が砂鉄の産地だったので、かんな流しと木炭の生産とによる土砂の大量流出の影響を受けて天井川となった。下流においてしばしば洪水を引き起こした。寛永13(1636)年、大洪水によって斐伊川の流れは一変して東方へ向い、その後河口に土砂が堆積した。宍道湖は急速に汽水湖化していった。西方に取り残された「神戸水海」も干潟化し、今の神西湖となった。

 以上、前田晴人『古代出雲』(吉川弘文館、2006、所収)の「八束水臣神津野命の正体」に拠る。
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【出雲】国引きの神はなぜ隠れたか? ~八束水臣神津野命の正体(1)~

2012年05月03日 | 神話・民話・伝説
(1)「出雲」の起源 ~イツモとイズモ~
 出雲の国引き神話はよく知られているが、その主役のヤツカミズオミツノノミコトは謎に満ちている。そもそも、国引きという大事業をなし終えた後、どこに消えたのか。この神の鎮座する社は『出雲国風土記』(以下『風土記』)に記されていないし、その御子神はわずか一柱、出雲郡伊努郷の地名説話にあがる「赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命」のみだ。
 この謎に迫るには、まず「出雲」の起源を辿らねばならない。

 「出雲」国号は、出雲郡出雲郷(現・簸川郡斐川町求院・富村・出西・神守)に由来する。出雲郷は、「出雲大川」の別称をもつ斐伊川下流右岸付近の平野郡だ。この小さな土地の名が後に国名に拡大発展したのだ。
 「出雲」という文字の起源・由来は、雲が絶えず湧き起こる自然現象に起源する。斐伊川が簸川平野に流出する地域には雲霧がよく発生するのだ。
 だが、別の説もあって、斐伊川下流低湿地に形成された天然の淵、そこに生える川藻を神聖視する信仰が基底にあるというのだ。わけても出雲郡塩治郷付近の「止屋淵」に群生する川藻が、もっとも神聖視された(「厳藻(イツモ)」説)。
 初源期、「イツモ(厳藻)」国が西出雲地域に形成されていたのだ。その「イツモ」はやがて「イズモ(出雲)」となったわけだ。名称変更された時期は、天・地/天ツ神・国ツ神の観念が出雲地方にも流入した時期より後だ。出雲に国造制が施行された頃、「八雲立つ出雲」国号が成立したのだ。
 国号の変転に密接に関係するのが、八束水臣神津野命(ヤツカミズオミツヌノミコト)の祭祀だ。
 『風土記』)総記にいわく、「八雲立つ出雲の国は狭布の稚国なるかも(幅の狭い布のような若い国だ)。初国小さく作らせり(最初に作った国の範囲は狭かった)。故、作り縫はな(だから、これから縫い拡げていこう)」
 こう語るのは八束水臣神津野命だ。「国引き」の神が出雲を創成した、というわけだ。
 神話上の「稚国」「初国」から大きな国への作り替えは、歴史上の小さな「イツモ」国から大きな「イズモ」国への進化と重なる。そして、この神にまつわる祭祀・儀礼の変質、ひいては国造を含む出雲国の首長勢力の歴史的な変転とも連動している。

(2)古代出雲の4大神
 『風土記』には、「大神(オオカミ)」が4柱ある。野城大神、佐太大神、熊野大神、所造天下(天の下造らしし)大神大穴持命(出雲大神)だ。
 大社、大神の称号は、ヤマト政権からは簡単には地方の神社には与えられなかった。『風土記』に記載されている大神は、出雲国の祭祀を専管した国造が、何らかの宗教的構想に基づいて国造の判断で指定したのだ。その構想を『風土記』に記して明確化しようとした意図は何か。
 ここで、これら4大神を地図上に落としてみると、野城・佐太・熊野の3大神は出雲東部に集中している。意宇郡家の位置からみると、3大神はほぼ東・北・南の方角に10kmほど隔てた地に所在している。他方、出雲大神は意宇郡家かのはるか真西30kmの地に位置している。
 野城・佐太・熊野の3大神は出雲国造一族の旧来の支配領域の境を示すものだ。後に出雲国全域にその支配権力を伸張させた段階で、出雲大神が西の重鎮として奉斎されるようになった。4大神の成立は、出雲国造の支配権力の拡大過程を反映している。 
 出雲大神が西方にかなり飛び離れて位置するのは、宍道湖が東西に長い湖面を有しているからであって、4大神は出雲国造が出雲国の中枢地帯全域を聖化し、守護する大神として、一時期に選定した有力神だ。
 選定には深淵な宗教的企画があったはずだ。というのは、国引きの神、「出雲」の国号命名した神、一説によれば出雲国造一族の原初の祖神、つまり八束水臣神津野命が4大神の仲間から外れているからだ。何故か。
 その答は後に譲るとして、4大神は元来はそれぞれの地域に形成されたクニの主神たちだった。出雲国造は、広域的な支配権の確立に伴って、それらの神々に対する統一的・領域的祭祀権を獲得したのだ。さらに、より高次の宗教王国的な構想にもとづく新たな神話的世界の形成に対応させるため、4大神の周到な選定と地理的な配置関係を作り出したのだ。
 そして、4大神の創出と密接な関連性をもっている、と推定されるのが『風土記』に登場する「神名火山/神名樋山/神名樋野」の伝承だ。

(3)古代出雲の神名火山
 「神名火山/神名樋山/神名樋野」・・・・「かむ(ん)なび」は、神が籠もるの意だ。神が降臨する山そのものを神に見立てる信仰があり、古代の列島社会には地域ごとにこうした山が無数にあった。意宇郡でそういう扱いを受けた山が神名樋野だ。「野」は「草地の多い山」の意だ。

 (a)意宇郡の神名樋野・・・・茶臼山(171m)。意宇郡家は国庁と同じ場所に隣接していた(松江市山代町中島に出雲国府跡)。その付近から西北間近に茶臼山がそびえる。これが神名樋野だ。この山に籠もる神は、大穴持命の御子、山代日子命だろう。
 (b)秋鹿郡の神名火山・・・・朝日山(342m)。朝日山の東麓、八束郡鹿島町(現・松江市鹿島町)佐陀宮内の佐太神社が『風土記』の御子社だ。佐太大神の誕生地は、嶋根郡加賀郷、加賀神埼であるとする伝承がある。朝日山は、これら両郡の地域でもっとも有力な神の鎮まる聖山だった。
 (c)楯縫郡の神名樋山・・・・大船山(327m)。島根半島西寄りにそびえる大船山頂付近の巨大な磐座が一つと小石群がある。この「石神」は、多伎都比古命の「御魂」だと伝えられる。神名の「多伎都」は水が激しく流れ落ちる「滝つ」の意。雨乞いに霊験を示す神だったらしい。多伎都比古命の父神、阿遅須枳高日予命は、神戸郡の高岸郷条に高屋を造って養育した地だ(伝承)。母神が、「汝が命の御祖の向位に生まむ」と考えて、この山に御子神を産生したとするのは、地理的にも矛盾しない。
 (d)出雲郡の神名火山・・・・仏経山(366m)。神庭荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡に近い。曾伎能夜社は、この山の北麓に位置する斐川町神氷にあるが、もともとは山頂に神の座があった。山体そのものが伎比佐加美高日子命として祟められたらしい。この神名は、『古事記』垂仁段に「出雲国造の祖、名は岐比佐都美」によく似ている。加美=神、都美=積ならば、「キヒサ」の部分が相互に一致している。「キヒサ」は、仏経山の南麓付近の古い地名だ。

 以上、『風土記』の神名火(樋)山は、大神と同じ数の4だ。4つの神名火(樋)山は、広大な出雲国の北端部に集中している。しかも、風土記の「入海」(宍道湖)をとり囲むようにそびえ立っている。そして、想定された広大な空間をさらに外から包みこむような位置に4大神が鎮座している。これは一体何を物語るのか。
 「入海」は、出雲国を縦横に結びつける政治的・経済的動脈だった。しかも、出雲国を象徴する大自然の風物でもある。『風土記』意宇郡母理郷の条に出てくる「青垣山」は、具体的にはこの4つの神名火(樋)山を含む山々に囲まれた空間を指すのではないか。大穴持命が口にした「青垣山」は、「入海」を中心とした空間を強く意識して発せられた聖なる言霊ではないか。してみると、同様に「八雲立つ」と宣言した八束水臣神津野命は、一体どこでこの言霊を発したのか。
 『風土記』には、「入海」そのものを何らかの神に見立てた記述はない。「入海」を詳しく記そうとした形跡もない。他方、『風土記』は大穴持命より前に「国引き」をした八束水臣神津野命を明記している。しかし、「国引き」の後の八束水臣神津野命を『風土記』は記していない。この神は、偉大な事業をった後、どこへ姿を隠してしまったのか。

 (続く)
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