語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【原発】確率論的安全評価の落とし穴 ~浜岡原発~

2012年05月13日 | 震災・原発事故
(1)浜岡原発の問題
 浜岡原発の問題は、安全基準に基づく「技術的判断」や、地元や国民の賛否という「社会的判断」の次元を超えて「リスク・マネジメント」の究極の問題を先鋭な形で政権に突き付けた。
 原発の安全性の議論において、「確率論的安全評価の思想」は適切か?
 すなわち、たとえ可能性が極めて低くとも、万一のときの被害が受容を超えるレベル甚大なリスクをどう考えるか?
 浜岡原発の問題は、単なる安全確認や安全対策の技術論を超えて、実は我々に「万一のとき、極めて重大で深刻な被害を与える可能性のある原発の安全性を、いかなる思想によって論じるか」ということを問うている。原発の安全評価の思想そのもののパラダイム転換を求めている。

(2)確率論的安全評価の思想
 「確率論的安全評価の思想」とは、ある出来事が起きたときの「被害の大きさ」(結果)だけを比較するのではなく、「起こる可能性」(確率)を含めて総合的に評価する思想のことだ。
 <例>Aという出来事が起こったときの「被害の大きさ」が、Bという出来事が起こったときの「被害の大きさ」の10倍だとする。Aの起こる可能性がBの10分の1ならば、AとBとは同じ「危険性」(期待リスク)を持つ。
 この思想には、大きな落とし穴がある。この確率論的手法は、「多数回の試行」をする立場の人間にとっては意味があるが、「1回限りの試行」をする立場の人間にとってはあまり意味がない。
 <例>重大な死亡事故が起きた場合、加害者は保険に加入していなければその事故だけで残る生涯を棒に振る。他方、保険会社は保険金5億円を支払っても、そうした重大な事故が起きる確率が1万分の1であれば、保険料1人当たり5万円で保険加入者が1万人以上あれば保険会社は倒産しなくてすむ。
 「事故の発生確率」を考えた「期待リスク」の考え方は、保険会社のように「数多くの事故」を対象として統計的に対処する立場にとっては意味があるが、「実際の事故」を起こしてしまった人間(たった1回の事故で残る人生を棒に振る人)にとっては、あまり意味がない思想なのだ
 今回の福島原発事故も同様で、たった1回の事故で極めて広域の放射能汚染を生じ、多くの周辺住民が生活を破壊し、無数の国民に不安を与えるような事故は、そしてその事故の収束と復興に数十年以上の歳月がかかり、膨大な国家予算を注入しなければならないような事故は、簡単に「発生確率は低い」という確率的論理や統計的論理で軽々に語ってはならない。
 千年に一度の確率であっても、起こってしまったとき、国家全体が危機に瀬するような事故については、「確率が低いから問題ない」という思想は間違っている。

(3)確率論的手法の限界と落とし穴
 じつは、上記の確率の評価そのものにも問題がある。
 1970年代初頭、ノーマン・ラムッセンMTI教授は、確率論的安全評価手法の「フォールト・ツリー分析」を使って、原発の確率論的安全評価を行った。周辺住民に被害をもたらすような大事故の起きる確率は、原子炉1基が1年間に10億分の1だ、と報告している。
 ラムッセン研究は理論的にも主峰的にも数多くの批判を浴びたが、その後の歴史を知っている我々には確率論的安全評価手法の限界を教えられた。このレポートが出た後、人類は、わずか32年間に、1979年(スリーマイル島事故)、1987年(チェルノブイリ事故)、2011年(福島事故)と3回もの深刻な事故を経験したのだ。
 さらに、確率論的手法には、もう一つ落とし穴がある。すなわち、「確率値の恣意的評価」だ。安全評価の結果を意図的に「十分に安全である」という結論に導くため、「確率値」を低めに評価するという落とし穴だ。
 ちなみに、リーマン・ショックも、「ローンが返済不能になる確率」を過小評価したことから起こった。「この金融商品がいかにリスクの少ない商品であるか」を顧客に説得するために、金融工学という最先端の数学的手法が利用された。
 よって、原発の安全性を論じる立場にある人間は、「確率論的安全評価の思想」の限界と「確率値の恣意的評価」という落とし穴について、深く理解しておかねばならない。

 以上、田坂広志『官邸から見た原発事故の真実 ~これから始まる真の危機~』(光文社新書、2012)に拠る。
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