(1)2つの「安全性」
野田政権は「原発の安全性を世界最高水準まで高める」と言うが、「安全性」は次の2つが問われる。
(a)「技術的な安全性」
(b)「人的、組織的、制度的、文化的な安全性」
(a)だけでなく、(b)を含めなければ「安全」を謳えない。なぜなら、世界で起こった原子力事故の大半は(b)の破綻によるからだ。
<例1>軍事用試験炉「SL-1」(米国アイダホ州アイダホフォールズ)の事故・・・・人類史上最初の原発死亡事故。一説によれば、作業員が自殺を企てて制御棒を意図的に抜いて原子炉を暴走させた。
<例2>JCOの事故・・・・JCOは、濃縮ウラン溶液の濃度を一定にする工程で、正式の作業手順である混合装置「貯塔」を使うと時間がかかる、という理由で、人の手でバケツを使って混合作業していた。しかも、作業を急いだ現場の作業員は、裏作業マニュアルさえ破って、小分けして沈殿槽に投入するべき高濃度ウラン化合物を一度に大量に投入したため、核分裂反応が発生したのだ【注1】。
(2)落とし穴 ~想定外・確率論・経済性~
(1)-(a)には2つの安全思想があって【注2】、
(a)“Fail Safe”(人間が操作を失敗しても安全が確保される)
(b)“Safety in Depth”(一つの安全装置が作動しなくても他にも幾重にも安全装置が施されている)
がそれだが、これには危険な落とし穴がある。「想定外」という落とし穴だ。(1)-(a)でどれほど安全な対策を施しても、(1)-(b)の要因から技術者が「想定」していなかったことが起きる。技術者は、技術者が「想定し得る全ての事態を想定している」に過ぎない。
そして、技術者の「想定」には、さらに恐ろしい落とし穴がある。「確率論」という落とし穴だ。極めて低い確率しか起こらない事態は、安全設計上は「想定」しないという結論にしてしまうのだ。
この背後には、さらに「経済性」という恐ろしい落とし穴がある。「そうした事態は極めて低い確率でしか起こらない」という判断をするプロセスに「経済性」への配慮が混入するのだ。最悪の場合、「そうした危険な事態は起こるかもしれないが、まともに対策するとかなりコストがかかるから、起こる確率は極めて低い事態であることを理由に想定しないようにしよう」という「経済優先主義」の判断が混入してしまうのだ。
福島第一原発事故も、調査が進めば、東京電力が落ち込んだ落とし穴が明らかにされるだろう。
政界、財界、官界のリーダーが、もし本当に「原子力の安全性を世界の最高水準にまで高める」ことをめざすなら、(1)-(b)を徹底的に究明し、原子力行政と原子力産業を徹底的に改革しなければならない。技術的な安全対策をすればこうした事故は起こらない、という楽観論に陥ってはならない。
(3)行政機構の組織的無責任
(1)-(b)は、事故原因だけでなく、「事故への対策」においても大きな問題だ。
今回の事故において、政府も事業者も「絶対安全神話」を信じて、「実際に苛酷事故が生じたときの対策」がほとんど検討・準備されていなかった。これはまさに、(1)-(b)の問題だ。
事故直後の3月13日、田坂は政府に2つ緊急提言を届けた。
(a)直ちにSPEEDIを活用して放射能の拡散を予測する。
(b)直ちに全国から放射線と放射能を測定する機器や設備を総動員し、徹底的な環境モニタリングを実施する。
じつは(b)は、原子力安全技術センターが、事故直後すぐ行っていた。4基から放出されたデータが入手できなかったので仮の数値を入れ、その予測値を原子力安全・保安院に報告した。しかし、保安院と内閣官房の職員は、仮の数値による予測値は無用の混乱と誤解を招くとして、総理に報告しなかった。しかし、不正確な予測値であっても、風向、風速データからしてどの地域が危険な地域になるか、分かったはずだ。
原子力安全技術センターも保安院も内閣官房も、職員はそれぞれの立場で「組織の職務」を行っているが、行政全体としては極めて無責任な状態になっている。こうした「行政機構の組織的無責任」の背景には、「縦割り行政の硬直化」がある。「横断的な仕事」が発生した場合、統轄する主体的組織がなかった。現在の行政機構には、国民の生命と健康、安全と安心を守るために、組織の領分を超えてでも行動するという職業意識と責任感、倫理観が希薄になっている【注3】。
【注1】「【震災】原発>政権中枢が反省する事故処理の不手際 ~自民党の場合~」
【注2】「【震災】原発>国民の信頼を失った日本の原子力行政 ~7つの疑問~」参照。
【注3】逆の例を挙げれば、現在の「行政機構の組織的無責任」が露わになる。・・・・1986年11月21日の三原山大噴火の際、後藤田正晴・内閣官房長官は、国土庁の鈍い動きに業を煮やし、中曽根総理に進言。その命令で内閣で処理することとした。そして、内閣は防衛庁、運輸省その他と折衝。最終的には38隻の艦船を伊豆七島・大島へさし向けた。ちなみに、国土庁は何をしていたかというと、関係19省庁の担当課長を防災局に集めて会議をしていた。議題1「災害対策本部の名称」。議題2「元号を使うか、西暦を使うか」、議題3「臨時閣議を招集するか、持ち回り閣議にするか」。そして、ダラダラと続いた「まさに官僚的な、被災者不在の的外れ密室会議」が23時45分にようやく終わった時、とっくに救出艦船団は大島に向かっていた。そして、翌日4時までに住民及び観光客13,000人は島を脱出した。【「【読書余滴】後藤田正晴回顧録(2) ~震災復興と危機管理~」】
以上、田坂広志『官邸から見た原発事故の真実 ~これから始まる真の危機~』(光文社新書、2012)に拠る。
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野田政権は「原発の安全性を世界最高水準まで高める」と言うが、「安全性」は次の2つが問われる。
(a)「技術的な安全性」
(b)「人的、組織的、制度的、文化的な安全性」
(a)だけでなく、(b)を含めなければ「安全」を謳えない。なぜなら、世界で起こった原子力事故の大半は(b)の破綻によるからだ。
<例1>軍事用試験炉「SL-1」(米国アイダホ州アイダホフォールズ)の事故・・・・人類史上最初の原発死亡事故。一説によれば、作業員が自殺を企てて制御棒を意図的に抜いて原子炉を暴走させた。
<例2>JCOの事故・・・・JCOは、濃縮ウラン溶液の濃度を一定にする工程で、正式の作業手順である混合装置「貯塔」を使うと時間がかかる、という理由で、人の手でバケツを使って混合作業していた。しかも、作業を急いだ現場の作業員は、裏作業マニュアルさえ破って、小分けして沈殿槽に投入するべき高濃度ウラン化合物を一度に大量に投入したため、核分裂反応が発生したのだ【注1】。
(2)落とし穴 ~想定外・確率論・経済性~
(1)-(a)には2つの安全思想があって【注2】、
(a)“Fail Safe”(人間が操作を失敗しても安全が確保される)
(b)“Safety in Depth”(一つの安全装置が作動しなくても他にも幾重にも安全装置が施されている)
がそれだが、これには危険な落とし穴がある。「想定外」という落とし穴だ。(1)-(a)でどれほど安全な対策を施しても、(1)-(b)の要因から技術者が「想定」していなかったことが起きる。技術者は、技術者が「想定し得る全ての事態を想定している」に過ぎない。
そして、技術者の「想定」には、さらに恐ろしい落とし穴がある。「確率論」という落とし穴だ。極めて低い確率しか起こらない事態は、安全設計上は「想定」しないという結論にしてしまうのだ。
この背後には、さらに「経済性」という恐ろしい落とし穴がある。「そうした事態は極めて低い確率でしか起こらない」という判断をするプロセスに「経済性」への配慮が混入するのだ。最悪の場合、「そうした危険な事態は起こるかもしれないが、まともに対策するとかなりコストがかかるから、起こる確率は極めて低い事態であることを理由に想定しないようにしよう」という「経済優先主義」の判断が混入してしまうのだ。
福島第一原発事故も、調査が進めば、東京電力が落ち込んだ落とし穴が明らかにされるだろう。
政界、財界、官界のリーダーが、もし本当に「原子力の安全性を世界の最高水準にまで高める」ことをめざすなら、(1)-(b)を徹底的に究明し、原子力行政と原子力産業を徹底的に改革しなければならない。技術的な安全対策をすればこうした事故は起こらない、という楽観論に陥ってはならない。
(3)行政機構の組織的無責任
(1)-(b)は、事故原因だけでなく、「事故への対策」においても大きな問題だ。
今回の事故において、政府も事業者も「絶対安全神話」を信じて、「実際に苛酷事故が生じたときの対策」がほとんど検討・準備されていなかった。これはまさに、(1)-(b)の問題だ。
事故直後の3月13日、田坂は政府に2つ緊急提言を届けた。
(a)直ちにSPEEDIを活用して放射能の拡散を予測する。
(b)直ちに全国から放射線と放射能を測定する機器や設備を総動員し、徹底的な環境モニタリングを実施する。
じつは(b)は、原子力安全技術センターが、事故直後すぐ行っていた。4基から放出されたデータが入手できなかったので仮の数値を入れ、その予測値を原子力安全・保安院に報告した。しかし、保安院と内閣官房の職員は、仮の数値による予測値は無用の混乱と誤解を招くとして、総理に報告しなかった。しかし、不正確な予測値であっても、風向、風速データからしてどの地域が危険な地域になるか、分かったはずだ。
原子力安全技術センターも保安院も内閣官房も、職員はそれぞれの立場で「組織の職務」を行っているが、行政全体としては極めて無責任な状態になっている。こうした「行政機構の組織的無責任」の背景には、「縦割り行政の硬直化」がある。「横断的な仕事」が発生した場合、統轄する主体的組織がなかった。現在の行政機構には、国民の生命と健康、安全と安心を守るために、組織の領分を超えてでも行動するという職業意識と責任感、倫理観が希薄になっている【注3】。
【注1】「【震災】原発>政権中枢が反省する事故処理の不手際 ~自民党の場合~」
【注2】「【震災】原発>国民の信頼を失った日本の原子力行政 ~7つの疑問~」参照。
【注3】逆の例を挙げれば、現在の「行政機構の組織的無責任」が露わになる。・・・・1986年11月21日の三原山大噴火の際、後藤田正晴・内閣官房長官は、国土庁の鈍い動きに業を煮やし、中曽根総理に進言。その命令で内閣で処理することとした。そして、内閣は防衛庁、運輸省その他と折衝。最終的には38隻の艦船を伊豆七島・大島へさし向けた。ちなみに、国土庁は何をしていたかというと、関係19省庁の担当課長を防災局に集めて会議をしていた。議題1「災害対策本部の名称」。議題2「元号を使うか、西暦を使うか」、議題3「臨時閣議を招集するか、持ち回り閣議にするか」。そして、ダラダラと続いた「まさに官僚的な、被災者不在の的外れ密室会議」が23時45分にようやく終わった時、とっくに救出艦船団は大島に向かっていた。そして、翌日4時までに住民及び観光客13,000人は島を脱出した。【「【読書余滴】後藤田正晴回顧録(2) ~震災復興と危機管理~」】
以上、田坂広志『官邸から見た原発事故の真実 ~これから始まる真の危機~』(光文社新書、2012)に拠る。
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