(1)原子力ムラは軍産複合体
戦後日本が追及してきた原子力政策は、福島第一原発事故で破綻した。
様々な分野で、「政官業の鉄の三角形」による利益配分政治が見られた。監督官庁と業界が、天下りや規制・助成を通して結びつき、そこに族議員も関与して既得権を温存する共同体を作ったのだ。
電力業界も、もちろん鉄の三角形の一例だ。が、事故を契機に広く知られるようになった原子力政策の歴史からすると、一業界が官僚と結託して利益を守った、というレベルの話ではない。国家権力の所在に関わる大きな問題だ。
事態は、むしろ日本版の軍産複合体の暴走がもたらしたものだ。軍産複合体という言葉は、米国のアイゼンハワー大統領が退任演説の中で初めて使われた。莫大な軍備と巨大な軍事産業との結合は米国史上初めてのことだ、委員会等における軍産複合体の影響力を排除しなければならない、「警戒心を持ち見識ある市民のみが、巨大な軍産マシーンを平和的な手段と目的に適合するよう強いることができるのです。その結果として安全と自由とが共に維持され発展して行くでしょう」。
アイゼンハワーは、軍人の頂点まで上がったから、政治家、官僚、軍部、軍需産業が結託して民主主義を壟断する危険性が分かっていた。同時に彼は、学者がこの複合体の中に巻きこまれる危険をも予言した。科学者は、莫大な資金が絡むと、知的好奇心より政府との契約が優先する、公共政策そのものが科学技術エリートの虜となる、云々。
もともと原子力発電は冷戦時代に拡大した核兵器の開発と密接に関係した技術だった。だから、原発をめぐる政官業の結合に軍産複合体のモデルを当てはめて、何ら差し支えない。アイゼンハワーの予言は、原発事故によって明らかにされた経産省、電力業界、原子力工学の世界、そしてメディアの密接な関係を言い当てている【注1】。
(2)福島原発メルトダウンが明らかにした権力構造
原子力分野の鉄の三角形/原子力ムラは、かくも犯罪的なことを国策の名の下に行ってきた。これは民主政治に対する脅威だ。
リンカーンは、民主主義を「人民の(of)、人民による(by)、人民のため(for)」の政治と定義した。ここで問題となるのは、“by”と“for”の関係だ。人民が自分にとっての利益を的確に理解することができれば、“by”によって“for”を実現できる。しかし、人民がそのような判断力を持たず、わざわざ自分にとって最悪の選択をする事態は、歴史上しばしば起こった(<例>ヒトラーの台頭)。まして、現代のように専門的科学技術が急速に発達し、一般市民には理解不能な知識・技術体系に基づいて政策を立案、実行するようになると、どのような政策が自分たちのためか、人民自身で判断するのが極めて困難となる。
そこで、官僚や学者などの専門家が、我々が決めてあげる、と乗り出す。それが、全部が全部悪いわけではない。専門家を信頼し、様々な技術を利用するのでなければ、現代の文明的な生活が成り立たない。ここで政府は、一般市民に代わって専門家の仕事が安全で有益なものかどうかをチェックしている(はずだ)。
しかし、専門家に任せきりにすると、別の問題が起こる。
(a)一般市民の無知をいいことに、専門家が安全や便利さを脅かす「問題」や「敵」を作りだし、それを解決するために自分の領域により多くの予算や権力を引き込もうとする(<例>軍産複合体)。
(b)専門家が本当に専門能力を持っているか、疑わしい場合もある。③官僚や学者の権威を用いて、専門的知見の裏付けのない政策を正当化し、そこに資源をつぎ込む事例もある(<例>原子力発電)。この場合、“by”の契機は封じ込まれ、もっぱら官僚や専門家が“for”の中身を定義することとなる。
ここで、“for”は二重の意味を帯びる。①「国民のために」という看板の下に、②「国民に代わって」政策を立案、実行する体制が構築されるのだ【注2】。日本の場合、明治以来、強力な官僚組織が存在していたから、人民に代わって英明なエリートが政策を立案、実行する仕組みが戦後も容易に成立し、持続してきた。
その典型例が原子力政策なのだ。経済の発展と豊かな生活のためには電気が不可欠で、電力を供給するためには原子力発電が最も安価である・・・・という図式を、官僚と専門家が作って、メディアがそれを広め、国民はそれを信じてきた。
こういう政策の立案、実施の過程では、異論は徹底的に無視、封殺されてきた。学者・専門家やメディアが動員され、「国民のため」の政策を宣伝することに加担してきた。民主主義の欠如という病が進行したのだ。
(続く)
【注1】例えば、「【震災】原発>公金と利権 ~政官財学マスコミ癒着の構図~」
【注2】「【震災】原発事故にみる戦後デモクラシーの欠落 ~for the peopleの二重性~」
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戦後日本が追及してきた原子力政策は、福島第一原発事故で破綻した。
様々な分野で、「政官業の鉄の三角形」による利益配分政治が見られた。監督官庁と業界が、天下りや規制・助成を通して結びつき、そこに族議員も関与して既得権を温存する共同体を作ったのだ。
電力業界も、もちろん鉄の三角形の一例だ。が、事故を契機に広く知られるようになった原子力政策の歴史からすると、一業界が官僚と結託して利益を守った、というレベルの話ではない。国家権力の所在に関わる大きな問題だ。
事態は、むしろ日本版の軍産複合体の暴走がもたらしたものだ。軍産複合体という言葉は、米国のアイゼンハワー大統領が退任演説の中で初めて使われた。莫大な軍備と巨大な軍事産業との結合は米国史上初めてのことだ、委員会等における軍産複合体の影響力を排除しなければならない、「警戒心を持ち見識ある市民のみが、巨大な軍産マシーンを平和的な手段と目的に適合するよう強いることができるのです。その結果として安全と自由とが共に維持され発展して行くでしょう」。
アイゼンハワーは、軍人の頂点まで上がったから、政治家、官僚、軍部、軍需産業が結託して民主主義を壟断する危険性が分かっていた。同時に彼は、学者がこの複合体の中に巻きこまれる危険をも予言した。科学者は、莫大な資金が絡むと、知的好奇心より政府との契約が優先する、公共政策そのものが科学技術エリートの虜となる、云々。
もともと原子力発電は冷戦時代に拡大した核兵器の開発と密接に関係した技術だった。だから、原発をめぐる政官業の結合に軍産複合体のモデルを当てはめて、何ら差し支えない。アイゼンハワーの予言は、原発事故によって明らかにされた経産省、電力業界、原子力工学の世界、そしてメディアの密接な関係を言い当てている【注1】。
(2)福島原発メルトダウンが明らかにした権力構造
原子力分野の鉄の三角形/原子力ムラは、かくも犯罪的なことを国策の名の下に行ってきた。これは民主政治に対する脅威だ。
リンカーンは、民主主義を「人民の(of)、人民による(by)、人民のため(for)」の政治と定義した。ここで問題となるのは、“by”と“for”の関係だ。人民が自分にとっての利益を的確に理解することができれば、“by”によって“for”を実現できる。しかし、人民がそのような判断力を持たず、わざわざ自分にとって最悪の選択をする事態は、歴史上しばしば起こった(<例>ヒトラーの台頭)。まして、現代のように専門的科学技術が急速に発達し、一般市民には理解不能な知識・技術体系に基づいて政策を立案、実行するようになると、どのような政策が自分たちのためか、人民自身で判断するのが極めて困難となる。
そこで、官僚や学者などの専門家が、我々が決めてあげる、と乗り出す。それが、全部が全部悪いわけではない。専門家を信頼し、様々な技術を利用するのでなければ、現代の文明的な生活が成り立たない。ここで政府は、一般市民に代わって専門家の仕事が安全で有益なものかどうかをチェックしている(はずだ)。
しかし、専門家に任せきりにすると、別の問題が起こる。
(a)一般市民の無知をいいことに、専門家が安全や便利さを脅かす「問題」や「敵」を作りだし、それを解決するために自分の領域により多くの予算や権力を引き込もうとする(<例>軍産複合体)。
(b)専門家が本当に専門能力を持っているか、疑わしい場合もある。③官僚や学者の権威を用いて、専門的知見の裏付けのない政策を正当化し、そこに資源をつぎ込む事例もある(<例>原子力発電)。この場合、“by”の契機は封じ込まれ、もっぱら官僚や専門家が“for”の中身を定義することとなる。
ここで、“for”は二重の意味を帯びる。①「国民のために」という看板の下に、②「国民に代わって」政策を立案、実行する体制が構築されるのだ【注2】。日本の場合、明治以来、強力な官僚組織が存在していたから、人民に代わって英明なエリートが政策を立案、実行する仕組みが戦後も容易に成立し、持続してきた。
その典型例が原子力政策なのだ。経済の発展と豊かな生活のためには電気が不可欠で、電力を供給するためには原子力発電が最も安価である・・・・という図式を、官僚と専門家が作って、メディアがそれを広め、国民はそれを信じてきた。
こういう政策の立案、実施の過程では、異論は徹底的に無視、封殺されてきた。学者・専門家やメディアが動員され、「国民のため」の政策を宣伝することに加担してきた。民主主義の欠如という病が進行したのだ。
(続く)
【注1】例えば、「【震災】原発>公金と利権 ~政官財学マスコミ癒着の構図~」
【注2】「【震災】原発事故にみる戦後デモクラシーの欠落 ~for the peopleの二重性~」
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