語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【出雲】神話と政治/出雲国造 ~八束水臣神津野命の正体(2)~

2012年05月04日 | 震災・原発事故
 (承前
(4)国引き神話
 (a)初源期の出雲国は、日本海に面した小さな「初国」「稚国」だった。「大海」の荒海がこの国の海岸を洗っていた。
 (b)八束水臣神津野命(ヤツカミズオミヅヌノミコト)は、まず朝鮮半島南部に占地した新羅国の領域の出っ張りの土地を、広い鋤で、大魚の鰓を切り裂くように割いて、三つ編みの網を掛け廻らし、引っ張ってきて、小さな「初国」「稚国」に縫い合わせた。かくて、去豆(現・小津浦)から西の杵築の御崎(現・日御碕)までの山地部分が誕生した。当時、新羅はヤマト政権と対立する状況にあり、出雲から見て西北に位置する新羅はもっとも近い異国だった。
 巨大な土地を引っ張った綱は薗の長浜(現・薗の松山)で、綱をつなぎ留めた杭は佐比売山(現・三瓶山)だった。出雲と石見両国の国境を画する三瓶山は、宍道湖上から明瞭に見える。三瓶山は出雲国に属する山だ、という意識がこういう形で顕在している。
 (c)北門の佐伎の国(現・隠岐島島前海士町崎)を割いて引き、縫いつけて「狭田の国」(現・島根郡西部/秋鹿郡東部地域)を成した。
 (d)また、北門の良波の国(現・隠岐島島後の一部)を同様にして「闇見の国」(現・島根郡東部地域)を成した。
 (e)仕上げに、高志の都都の三埼(現・能登半島突端部あたり)から引いて、「三穂の埼」(現・美保関一帯)を成した。綱は夜見の嶋(後に本土とつながって弓ヶ浜半島の一部となる砂嘴)で、綱をつなぎ留めた杭は火神岳(現・伯耆大山)だった。古い時期の出雲国は、大山をも包含する領域に広がっていた。
 (f)かくて島根半島が誕生し、「入海」が生まれた。国引きを終えた臣神津野命は、郡家の東北に隣接する意宇杜にやってきて、杖を衝き立て、「意恵」という言霊を発っした(意宇の地名の由来)。

(5)八束水臣神津野命
 (a)『古事記』の淤美豆奴神は、出雲の在地神で、スサノヲ命の4世末裔、大国主命(大穴牟遅神)の祖父だ。
 (b)『古事記』では落ちている冠称「八束水」は、掌で掬いとれるほどの量の神聖な水の意。
 (c)八束水臣神津野命は巨人だった。(b)の掬いとる水の量も膨大だった。巨人伝承の属性は、一ヵ所に定着する前は、各地を巡回・漂泊したことで、国作りの神はその地域の人々にとっては巡行神・客神(マレヒト)の性格を持った。国作り、農耕に関与したのだ。
 (d)八束水臣神津野命は、鎮座すべき土地=国を持つ神ではなかった。この神が鎮座していることを示す神社は、古代の文献にはまったく認められない。臣神津野命が鎮座した場所は、『風土記』には記されていない。
 (e)八束水臣神津野命は、巨大な水の神だった(「臣神津野命」=「大水主神」)。
 (f)『風土記』や『延喜式』神名帳には記載の見えない富神社(簸川郡斐川町富村)の付近は、古代出雲郡出雲郷の中心地で、古山陰道が走行していた(推定)。その富神社の祭神が八束水淤美豆奴命なのだ。この地域が、八束水臣神津野命の本源の地だ。
 (g)出雲郷の神が、出雲全域をカバーする国引きの神に変質した。つまり、八束水臣神津野命は、地域的な水神から、「入海」を神体とする巨神に変貌した【注1】。
 (h)ちなみに、国引きの東方の端の舞台は弓ヶ浜(旧・夜見ヶ浜)、西の端が薗の松山だ。八束水臣神津野命=「入海」の神という説に矛盾しない。

(6)政治
 (a)『風土記』が作られた頃の出雲国には、すでに島根半島は厳然と存在していた。その時代より古い時代には島根半島は島で、その海峡を通じて「入海」は日本海と繋がっていた。簸川平野に注ぎこむ斐伊川・神戸川の土砂が海峡部分に堆積して島根半島が形成された【注2】。
 (b)西出雲の斐伊川下流域低湿地で祀られていた「厳藻(イツモ)」を聖なる神格とする水神の奉祭勢力は、弥生時代以来この地方を支配した首長集団だった。支配領域はイツモ国だ。後に出雲国造に就く出雲臣一族も、この水神の信仰を継承し、自分たちの祖先神として祀った。
 (c)風土記』総記によれば、八束水臣神津野命は「八雲立つ」出雲国の命名神だ。
 (d)『風土記』意宇郡条は、地名の由来を語って、八束水臣神津野命が出雲を最初に作った神と位置づける。古代の国作りは、国生み、国引きの2つの創造の仕方があった。『日本書紀』のそれは前者だが、『風土記』は後者だ(縫い足す)。なお、『風土記』出雲郡杵築郷の条にも同様の所伝が見られる。
 (e)神話では、国引きによって島根半島全体が完成し、「嶋根」と名づけられた。ところで、国引き詞章とは別の嶋根郡がすでに存在していたのだが、『風土記』は周到にも、臣神津野命の言霊によって嶋根郡の郡名が定められたとする。島根半島東部は「狭田の国」とは違う地域首長の領域だった可能性があり、「闇見の国」という国名はそうした古いクニの存在を窺わせる。
 (f)臣神津野命の国引きは、意宇郡を本拠地としていた出雲国造の出雲統治に引きつけて描かれている。『風土記』の国引き神話は、出雲国出雲臣広嶋の吟味と点検をへて採用された伝承だったことに留意しなければならない。要するに、国引き神話は、出雲国造出雲臣一族の現実の出雲支配を正当化するために創作された。
 (g)6世紀に国造制が出雲に導入され、大穴持命や熊野大神の祭祀がヤマト政権の手でこの地に持ちこまれた。イツモ国の在地神・祖先神の信仰を前面に押し出せなくなった出雲国造は、4大神の神領に抵触しない空間に、巨神の鎮座する聖域を設定した。4大神/4神名火(樋)を四方の柱に見立て、神座を「入海」に置いた超巨大な神殿を造型したのだ。
 (h)『風土記』の国引き神話は、出雲国造の「出雲国」全土に対する支配権力の確立を前提に語り出された。国造は、八束水臣神津野命を原初の出雲国創成神に位置づけることによって、この神こそが出雲にとってもっとも神聖で枢要な存在であることを印象づけようとした。「八雲立つ出雲」という新たに語り出された神語は、古い起源を持つ水神の言葉であることを根拠として、国造の出雲支配を正当化する役割を担うことになった。

 【注1】「八つ芽生す 厳藻」→「やつめさす出雲」。『風土記』総記の「八雲立つ出雲国」も、『古事記』景行段の歌謡に出る「やつめさす 出雲建の 佩ける太刀」も、出雲国号の成立に関係する重要な祭祀のなかで生まれた。
 【注2】その後、斐伊川は、簸川平野を北から西へ屈曲して流れ、その流末は『風土記』の「神戸水海」に注いだ。ところが、斐伊川は暴れ川だった。しかも上流部が砂鉄の産地だったので、かんな流しと木炭の生産とによる土砂の大量流出の影響を受けて天井川となった。下流においてしばしば洪水を引き起こした。寛永13(1636)年、大洪水によって斐伊川の流れは一変して東方へ向い、その後河口に土砂が堆積した。宍道湖は急速に汽水湖化していった。西方に取り残された「神戸水海」も干潟化し、今の神西湖となった。

 以上、前田晴人『古代出雲』(吉川弘文館、2006、所収)の「八束水臣神津野命の正体」に拠る。
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