名古屋城は、1612(慶長17)年12月、その天守閣がほぼ完工。シャチホコに使われた金の量は雌雄合わせて320kg、小判に換算して17,975両だった。
しかし、復元されたシャチホコには、元の4分の1の88kgしか使われていない。それ以上の予算がなかったためだ。それでも、時価で1億円もした(復元開始は1957(昭和32)年)。
シャチホコは高さ2.6mもある。その巨大な雌雄2体のブロンズ像は、文化財修理の第一人者と言われていた大谷隆義・鋳物職人が請け負った。彼の工房は大阪にあったが、製作は城の横にある作業小屋で行われた。
できあがったブロンズ像に金の鱗を施す作業は、大阪造幣局へ依頼された。
金をかぶせる技術は鎚金といって、江戸時代にはキセルやかんざし、明治以降は金杯や銀杯など鎚金師の腕が要求される仕事がたくさんあった。
しかし、杯のような単純な形状の加工は機械にとって代わられた。追い打ちをかけたのが、日中戦争下の1940(昭和15)年に贅沢品の制作を禁じた「7・7禁令」だ。
使わない技術はすたれる。が、大阪造幣局にはその技をもつ職人がいたのだ。
シャチホコの胴体をおおう鱗は、雌が126枚、雄が112枚。厚さ1mmの銅の基板に銀メッキを施し、その上に漆を塗ったものが鱗になる。この鱗1枚1枚に金板をかぶせていく、複雑な形状をもつ頭部も、同様の工程でつくられた金片で覆っていくのだ。
サビつく寸前の技術を発揮する機会だ・・・・と勇んで、奥野茂一は取り組み始めた。
だが、使える金の総量が最大のネックとなることが分かった。使える金は江戸時代に使われた金の4分の1でしかない。計算してみると、金箔1枚の厚さは0.15mm。葉書より薄い。金槌でたたけば、破れる。ヘラを使って金を延ばして鱗に張りつけようとしても、やはり破れる。
奥野は、「共付け」という伝統的な技を援用した。破れたら、火で溶かして穴をふさぐのだ。しかし、火を離すタイミングが問題だった。タイミングを間違えると、表面が凸凹になったり、継ぎ目ができたりする。
鱗1枚に金をかぶせるまで2週間かかった。しかし、費やした時間は無駄ではなかった。その期間に奥野は、「共付け」の高度な技をマスターした。
1959(昭和34)年7月、すべての鱗の取り付けが終わった。
□NHKプロジェクトX制作班・編『曙光激闘の果てに ~プロジェクトX挑戦者たち 29~』(日本放送出版協会、2005)の「①名古屋城再建 金のシャチホコに託す」
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しかし、復元されたシャチホコには、元の4分の1の88kgしか使われていない。それ以上の予算がなかったためだ。それでも、時価で1億円もした(復元開始は1957(昭和32)年)。
シャチホコは高さ2.6mもある。その巨大な雌雄2体のブロンズ像は、文化財修理の第一人者と言われていた大谷隆義・鋳物職人が請け負った。彼の工房は大阪にあったが、製作は城の横にある作業小屋で行われた。
できあがったブロンズ像に金の鱗を施す作業は、大阪造幣局へ依頼された。
金をかぶせる技術は鎚金といって、江戸時代にはキセルやかんざし、明治以降は金杯や銀杯など鎚金師の腕が要求される仕事がたくさんあった。
しかし、杯のような単純な形状の加工は機械にとって代わられた。追い打ちをかけたのが、日中戦争下の1940(昭和15)年に贅沢品の制作を禁じた「7・7禁令」だ。
使わない技術はすたれる。が、大阪造幣局にはその技をもつ職人がいたのだ。
シャチホコの胴体をおおう鱗は、雌が126枚、雄が112枚。厚さ1mmの銅の基板に銀メッキを施し、その上に漆を塗ったものが鱗になる。この鱗1枚1枚に金板をかぶせていく、複雑な形状をもつ頭部も、同様の工程でつくられた金片で覆っていくのだ。
サビつく寸前の技術を発揮する機会だ・・・・と勇んで、奥野茂一は取り組み始めた。
だが、使える金の総量が最大のネックとなることが分かった。使える金は江戸時代に使われた金の4分の1でしかない。計算してみると、金箔1枚の厚さは0.15mm。葉書より薄い。金槌でたたけば、破れる。ヘラを使って金を延ばして鱗に張りつけようとしても、やはり破れる。
奥野は、「共付け」という伝統的な技を援用した。破れたら、火で溶かして穴をふさぐのだ。しかし、火を離すタイミングが問題だった。タイミングを間違えると、表面が凸凹になったり、継ぎ目ができたりする。
鱗1枚に金をかぶせるまで2週間かかった。しかし、費やした時間は無駄ではなかった。その期間に奥野は、「共付け」の高度な技をマスターした。
1959(昭和34)年7月、すべての鱗の取り付けが終わった。
□NHKプロジェクトX制作班・編『曙光激闘の果てに ~プロジェクトX挑戦者たち 29~』(日本放送出版協会、2005)の「①名古屋城再建 金のシャチホコに託す」
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