(1)阪神・淡路大震災では、例えば高層の明治生命ビルが下から3分の1ぐらいの位置で折れた。ところが、たちまちシートがかけられ、解体された。
並んだ鉄筋の繋ぎ位置の高さをずらすなど安全対策が守られないと、立派なビルも簡単に折れる。明治生命ビルがそのケースだったのかは不明だが、被災地における異常なまでに早い解体に、「手抜き工事がばれないためではないか」という疑いを残した。
(2)犠牲者は、基本的に建築構造物による圧死が大半だった。
対策はどうであったか。実は、震災が起きるまで、阪神間は水害対策が中心だった。集中豪雨が原因で、
1938年には616人、
1967年に77人
の死者を出している。
大きい地震は、1916年の明石海峡東部地震(M6.1)以来起きていなかった。家屋は台風対策が主だった。そのため、細い柱に重い屋根は、縦揺れの激震でひとたまりもなかった。
だが、専門家が皆同じように「大地震は来ない」と信じていたわけではない。
(3)1974年11月、「神戸と地震」という報告書(京都大学防災研究所、大阪市立大学理学部および神戸市教育委員会の合同研究)が、調査依頼した神戸市に届けられた。
調査チームは、ボーリングなどを重ねた。驚くべし、報告書は「神戸市周辺地域は、活断層と呼ばれる新しい断層系が複雑に走っており、これらと地震との関連が、他都市の地震対策と異なる注目点となる。(中略)活断層群の実在するこの地域(引用者注:六甲山地付近)で、将来都市直下型の大地震が発生する可能性はあり、その時には活断層付近でキ裂、変位がおこり、壊滅的な被害を受ける」と断定していたのだ。
地震学、地質学および地勢学の研究者が断層について議論するのは世界でもはじめてだったのではないか。自治体の報告書にしては珍しく表現も断定的だった。かつて活断層が動いたために盆地や平野ができて人が集まった。だから大地震は都市直下で起きやすい。今でも十分に使える先進的な報告書だ。【尾池和夫・京都造形芸術大学長、当時京大防災研から調査に参加】
当時は活断層の認識がなくて、よく伝わらなかった面もあるが、あれだけ活断層があるのに大地震が起きていないことが不思議だった。エネルギーが溜まっていた証拠だ。【調査に加わった別のメンバー】
と・こ・ろ・が、神戸市はこの調査を隠した。当時は「株式会社神戸市」の異名をとった宮崎辰雄市政だった。神戸空港の誘致、ポートアイランド事業など、巨大開発が目白押しだった。神戸市が危険な地域と見られては開発行政にとって都合が悪かったのだ。
「神戸市の震災対策」報告(1977年)にも反映させなかった。都市直下の文字すら、無かった。
(4)後年、早川和男・神戸大学名誉教授は、「報告書があるはず」と市側に問い質した。しかし、「無い」という回答だった。「税金で調査させておいて、都合の悪い結果は知らせない。これが市の姿勢」なのであった。
調査チームの一人、藤田和夫・大阪市立大学名誉教授(故人)は、震災の直前まで都市直下型地震の危険性を強く訴えていた。しかし、笹山幸俊・神戸市長(当時)は無視した。市の意向を受けた室崎益輝・神戸大学工学部教授(当時)/兵庫県立大学防災教育センター長(現在)は、防災会議地震対策部会で、想定震度を「5強」と誤魔化した。
(5)1995(平成7)年1月17日5時46分52秒、ついに地震計でも測れない震度7が襲った。
だが、神戸市は再開発の好機と見た。
貝原俊民・兵庫県知事(故人)は、震災直後の1月26日、「禍の中に福あり。震災によって21世紀都市づくりができる」と口を滑らした。
小川卓海・神戸市助役(故人)は、多くの人が焼死した神戸市長田区について「幸か不幸か燃えた」と失言した。
(6)震災からわずか2か月後、神戸市は突如、新長田駅南側における西日本最大の再開発計画(総事業費2,711億円、44棟もの高層ビルを建てる)を発表した。避難所暮らしの住民には寝耳に水だった。
大正筋商店街(国道43号から南へ延びる)は、1999年、「アスタくにづか1~6番館」として生まれ変わった。地下、1・2階が店舗、上層は分譲マンション。市は、焼け出された店主が同じ場所で商売を再開するに当たり、店舗の購入を義務づけた。
しかし、共有面積が広く、エスカレーターなどの維持を名目に、管理会社(「新長田まちづくり(株)」)に高額な管理費を払わされた。加えて、このまちづくり会社の会計は「ブラックボックス」なのであった。
1か月に、管理費や積立金が7万円。【谷本雅彦・洋裁店「PET」店主】
1か月に、管理費が5万円、さらに70平米ほどの店舗に固定資産税が40万円。【横川昌和・うどん店「七福」店主】
2011年、アスタくにづか6番館北棟の店舗部会は、管理費をめぐり、まちづくり会社に対して1,350万円の不当利得返還訴訟を起こした。その後も52人が同様の訴訟を起こすなど、現在、商店主の怒りが爆発している。
アスタくにづかは、すべて高層建築のため、受注者はゼネコン。神戸市民の税金は東京資本に吸い上げられただけだった。
(7)500人ほどの「震災障害者」について、マスコミはほとんど報じていない。
マスコミは、死者や遺族にしか関心がなかった。最初に報じたのは、震災2年後の「毎日新聞」の記事だ。低地に連なる老朽木造住宅の倒壊による死者が多く、阪神・淡路大震災は異常なまでに致死率が高い災害だった。【岩崎信彦・神戸大学名誉教授】
大地震では、通常、
死亡者:負傷者=1:10
とされるが、阪神・淡路大震災では、およそ
死亡者:負傷者=6:10
東日本大震災では、負傷者は死亡者の半数以下だが、これは津波による溺死が多かったためだ。
大震災で怪我人をゼロにすることはできない。しかし、死亡者は減らすことができる。
死亡の最大の原因は家屋の脆弱さだ。阪神・淡路大震災における致死率の異常な高さも、人災的側面が大きかった証拠だ。
(8)災害障害見舞金という制度はあるが、「条件が厳しすぎて受け取れたのは64人だけ」【岩崎神大名誉教授】。
あんなにたくさん人が周囲で死んでいる中、怪我を訴えにくい。それも対策遅れの一因だ。【牧秀一・震災障害者問題に取り組む「よろず相談室」】
医師は、出血などの応対に追われ、潜在的な危険に手が回らなかった。
狭い車における寝泊まりで起きるエコノミー症候群が問題視されたのは、新潟県中越地震(2004年)以降だ。
(9)「六甲山を削って海を埋め立てさせる」・・・・これが神戸市で1949年から2013年まで、4人で64年間も続いた歴代市長(原口忠次郎、宮崎辰雄、笹山幸俊、矢田立郎)の巨大開発の基本だ。その典型は、
神戸港東部埋め立て
「神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア’81)」跡地のポートアイランド、六甲アイランド
神戸空港
神戸市は、1981年、新神戸駅近くの市民病院を、市民の反対を押し切って、ポートアイランドに移転させた。だが、震災時、連絡橋が落下して行き来できず、市民病院はまるで役に立たなかった。
神戸市はしかし、この「行政的重過失」に頬かむり。ポートアイランドの企業誘致が不調になると、病院をさらに沖側に移転させた。さらに「先端医療都市」と銘打って、巨額予算を注ぎ込んで、豪華な箱モノを並べた。
その一つが、理化学研究所の多細胞システム形成研究センター(CDB)だ。小保方晴子のSTAP細胞が不正実験によるものだったことが確定し、市の大きな期待にケチがついた。このスキャンダルが、神戸市の巨大開発の虚像を象徴している。
□粟野仁雄(ジャーナリスト)「住民無視の巨大開発のツケ」(「週刊金曜日」2015年1月23日号)
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【参考】
「【震災】住民の生命や生活より箱モノ造りを優先 ~神戸市~」
「【震災】神戸市長田区に見る「復興災害」(2)」
「【震災】神戸市長田区に見る「復興災害」(1)」
「【旅】復興を絵画で表現できるか ~平町公の試み~」
「【震災】二重ローン 得するのは銀行だけだ ~その対策~」
「【震災】復興のカギはパイプ役(住民の自主組織) ~神戸の過ち、奥尻の教訓~」
「書評:『神戸発 阪神大震災以後』」
「書評:『復興の闇・都市の非情 --阪神大震災、五年の軌跡』」
並んだ鉄筋の繋ぎ位置の高さをずらすなど安全対策が守られないと、立派なビルも簡単に折れる。明治生命ビルがそのケースだったのかは不明だが、被災地における異常なまでに早い解体に、「手抜き工事がばれないためではないか」という疑いを残した。
(2)犠牲者は、基本的に建築構造物による圧死が大半だった。
対策はどうであったか。実は、震災が起きるまで、阪神間は水害対策が中心だった。集中豪雨が原因で、
1938年には616人、
1967年に77人
の死者を出している。
大きい地震は、1916年の明石海峡東部地震(M6.1)以来起きていなかった。家屋は台風対策が主だった。そのため、細い柱に重い屋根は、縦揺れの激震でひとたまりもなかった。
だが、専門家が皆同じように「大地震は来ない」と信じていたわけではない。
(3)1974年11月、「神戸と地震」という報告書(京都大学防災研究所、大阪市立大学理学部および神戸市教育委員会の合同研究)が、調査依頼した神戸市に届けられた。
調査チームは、ボーリングなどを重ねた。驚くべし、報告書は「神戸市周辺地域は、活断層と呼ばれる新しい断層系が複雑に走っており、これらと地震との関連が、他都市の地震対策と異なる注目点となる。(中略)活断層群の実在するこの地域(引用者注:六甲山地付近)で、将来都市直下型の大地震が発生する可能性はあり、その時には活断層付近でキ裂、変位がおこり、壊滅的な被害を受ける」と断定していたのだ。
地震学、地質学および地勢学の研究者が断層について議論するのは世界でもはじめてだったのではないか。自治体の報告書にしては珍しく表現も断定的だった。かつて活断層が動いたために盆地や平野ができて人が集まった。だから大地震は都市直下で起きやすい。今でも十分に使える先進的な報告書だ。【尾池和夫・京都造形芸術大学長、当時京大防災研から調査に参加】
当時は活断層の認識がなくて、よく伝わらなかった面もあるが、あれだけ活断層があるのに大地震が起きていないことが不思議だった。エネルギーが溜まっていた証拠だ。【調査に加わった別のメンバー】
と・こ・ろ・が、神戸市はこの調査を隠した。当時は「株式会社神戸市」の異名をとった宮崎辰雄市政だった。神戸空港の誘致、ポートアイランド事業など、巨大開発が目白押しだった。神戸市が危険な地域と見られては開発行政にとって都合が悪かったのだ。
「神戸市の震災対策」報告(1977年)にも反映させなかった。都市直下の文字すら、無かった。
(4)後年、早川和男・神戸大学名誉教授は、「報告書があるはず」と市側に問い質した。しかし、「無い」という回答だった。「税金で調査させておいて、都合の悪い結果は知らせない。これが市の姿勢」なのであった。
調査チームの一人、藤田和夫・大阪市立大学名誉教授(故人)は、震災の直前まで都市直下型地震の危険性を強く訴えていた。しかし、笹山幸俊・神戸市長(当時)は無視した。市の意向を受けた室崎益輝・神戸大学工学部教授(当時)/兵庫県立大学防災教育センター長(現在)は、防災会議地震対策部会で、想定震度を「5強」と誤魔化した。
(5)1995(平成7)年1月17日5時46分52秒、ついに地震計でも測れない震度7が襲った。
だが、神戸市は再開発の好機と見た。
貝原俊民・兵庫県知事(故人)は、震災直後の1月26日、「禍の中に福あり。震災によって21世紀都市づくりができる」と口を滑らした。
小川卓海・神戸市助役(故人)は、多くの人が焼死した神戸市長田区について「幸か不幸か燃えた」と失言した。
(6)震災からわずか2か月後、神戸市は突如、新長田駅南側における西日本最大の再開発計画(総事業費2,711億円、44棟もの高層ビルを建てる)を発表した。避難所暮らしの住民には寝耳に水だった。
大正筋商店街(国道43号から南へ延びる)は、1999年、「アスタくにづか1~6番館」として生まれ変わった。地下、1・2階が店舗、上層は分譲マンション。市は、焼け出された店主が同じ場所で商売を再開するに当たり、店舗の購入を義務づけた。
しかし、共有面積が広く、エスカレーターなどの維持を名目に、管理会社(「新長田まちづくり(株)」)に高額な管理費を払わされた。加えて、このまちづくり会社の会計は「ブラックボックス」なのであった。
1か月に、管理費や積立金が7万円。【谷本雅彦・洋裁店「PET」店主】
1か月に、管理費が5万円、さらに70平米ほどの店舗に固定資産税が40万円。【横川昌和・うどん店「七福」店主】
2011年、アスタくにづか6番館北棟の店舗部会は、管理費をめぐり、まちづくり会社に対して1,350万円の不当利得返還訴訟を起こした。その後も52人が同様の訴訟を起こすなど、現在、商店主の怒りが爆発している。
アスタくにづかは、すべて高層建築のため、受注者はゼネコン。神戸市民の税金は東京資本に吸い上げられただけだった。
(7)500人ほどの「震災障害者」について、マスコミはほとんど報じていない。
マスコミは、死者や遺族にしか関心がなかった。最初に報じたのは、震災2年後の「毎日新聞」の記事だ。低地に連なる老朽木造住宅の倒壊による死者が多く、阪神・淡路大震災は異常なまでに致死率が高い災害だった。【岩崎信彦・神戸大学名誉教授】
大地震では、通常、
死亡者:負傷者=1:10
とされるが、阪神・淡路大震災では、およそ
死亡者:負傷者=6:10
東日本大震災では、負傷者は死亡者の半数以下だが、これは津波による溺死が多かったためだ。
大震災で怪我人をゼロにすることはできない。しかし、死亡者は減らすことができる。
死亡の最大の原因は家屋の脆弱さだ。阪神・淡路大震災における致死率の異常な高さも、人災的側面が大きかった証拠だ。
(8)災害障害見舞金という制度はあるが、「条件が厳しすぎて受け取れたのは64人だけ」【岩崎神大名誉教授】。
あんなにたくさん人が周囲で死んでいる中、怪我を訴えにくい。それも対策遅れの一因だ。【牧秀一・震災障害者問題に取り組む「よろず相談室」】
医師は、出血などの応対に追われ、潜在的な危険に手が回らなかった。
狭い車における寝泊まりで起きるエコノミー症候群が問題視されたのは、新潟県中越地震(2004年)以降だ。
(9)「六甲山を削って海を埋め立てさせる」・・・・これが神戸市で1949年から2013年まで、4人で64年間も続いた歴代市長(原口忠次郎、宮崎辰雄、笹山幸俊、矢田立郎)の巨大開発の基本だ。その典型は、
神戸港東部埋め立て
「神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア’81)」跡地のポートアイランド、六甲アイランド
神戸空港
神戸市は、1981年、新神戸駅近くの市民病院を、市民の反対を押し切って、ポートアイランドに移転させた。だが、震災時、連絡橋が落下して行き来できず、市民病院はまるで役に立たなかった。
神戸市はしかし、この「行政的重過失」に頬かむり。ポートアイランドの企業誘致が不調になると、病院をさらに沖側に移転させた。さらに「先端医療都市」と銘打って、巨額予算を注ぎ込んで、豪華な箱モノを並べた。
その一つが、理化学研究所の多細胞システム形成研究センター(CDB)だ。小保方晴子のSTAP細胞が不正実験によるものだったことが確定し、市の大きな期待にケチがついた。このスキャンダルが、神戸市の巨大開発の虚像を象徴している。
□粟野仁雄(ジャーナリスト)「住民無視の巨大開発のツケ」(「週刊金曜日」2015年1月23日号)
↓クリック、プリーズ。↓
【参考】
「【震災】住民の生命や生活より箱モノ造りを優先 ~神戸市~」
「【震災】神戸市長田区に見る「復興災害」(2)」
「【震災】神戸市長田区に見る「復興災害」(1)」
「【旅】復興を絵画で表現できるか ~平町公の試み~」
「【震災】二重ローン 得するのは銀行だけだ ~その対策~」
「【震災】復興のカギはパイプ役(住民の自主組織) ~神戸の過ち、奥尻の教訓~」
「書評:『神戸発 阪神大震災以後』」
「書評:『復興の闇・都市の非情 --阪神大震災、五年の軌跡』」