お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

ビハーラ学習会

2009年03月05日 | 行事・案内
 ビハーラ(仏教版ホスピス)基本学習会のご案内です。
 
 もちろん、ビハーラ会員外の方も、自由に聴講できます。

 日時:3月9日(月)午後1時半より

 場所:本願寺佐賀会館(佐賀市城内・県庁西隣)

 講師:ソナム・ワンディー・ブティア師(本願寺派開教使・カトマンズ本願寺所長)

 テーマ:「ネパールの浄土真宗」

 参加費:一般の方は500円

 たぶん、興味深いお話を伺えると思います。
 ご都合のつかれる方は、ぜひ、ご参加ください

 
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知識

2009年03月03日 | 仏教
 「知識」
 
 一般的には、学問、情報などで「知り得たこと」の意味で使われますよね。
 
 私は、まことに、どの方面に関しても、「知識」少なくお恥ずかしいのですが・・・
 
 仏教語の「知識」は、「人」の意味で使われます。

 よく耳にするのが「領解文(りょうげもん」にも出てくる「善知識(ぜんぢしき)」

 「善知識」とは、仏縁を結ばせてださった人、仏教を教え、導いてくださる人のことです。

 あ、そういえば「恩徳讃」にも「師主知識の恩徳も~」と「知識」がでてきますね。

 仏教語の「知識」(私を仏の教えに導き、ご指導くださる方々)ならば、
私には、実に豊かな数え切れないほどの「知識」があります。

 
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聞法

2009年03月02日 | 仏教
 浄土真宗に、修行はありませんが、ただ「聞く」ということを大切にします。

 お寺で、あるいは、家庭の法要で仏法を聞く・・・ただ、素直に仏さまの仰せを聞く・・・

 これは簡単なようで、非常に難しいことです。
 特に「素直に聞く」ってことが・・・

 何しろ「自分は、そこそこ教養ある常識人だ」という自惚れ意識があるので、
 仏さまのことも自分の頭(理屈)で理解しようとします。

「何だ、お寺で仏法を聞け聞けと言うわりに、ヘタクソな法話をしやがって
「実生活に何の役にたたない話ばかりして・・・」と。

 たぶん、精神修養、道徳論ならば、「なるほど」と「理解」できるのでしょうが、

 「阿弥陀仏」とか「念仏」とか聞いた途端、「ゲッ抹香臭~い、自分には関係ないもんね~」と、なってしまう。

 この「自分は常識がある」という「自分の執着心」こそが問題だと、それに気づかないと、さとりには至らないのですよ というのが、「南無阿弥陀仏」なんですが・・・
 それを伝える側も、聞く側も、ホント難しいと思います。
コメント (5)
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お寺に行っても・・・2

2009年03月01日 | 仏教
 仏教を精神修養=いい人になる ための教え という誤解。

 これも仏教に対する誤解の一つです。

 もちろん、仏さまの教えを聞いて、自分の愚かさに気づかされます。丸く穏やかに・・・と心がける気持ちは出てくるとは思います。

 でも、自分の心のトゲが無くなってしまう・・・なんてことは、ありえない。

 どんなに気をつけていても、相変わらず、欲も多いし、腹も立つし、自分の「常識」を振りかざして、相手と衝突してしまう・・・

 熱心にお寺参りをしているお姑さんが、お嫁さんの考える理想の姑(大抵、自分のワガママに寛容で、自分にとって好都合な姑さん)に、変身するか といったら、そういうことは、まず、ない と思う。

 むしろ、仏さまの教えを聞いても、聞いても
「仏さまのような理想の心」に成り得ない、
どうしようもない自分がいるからこそ、
阿弥陀如来の「本願(さとりに導びこう という仏さまの願い)」がより、心にしみて、
 
 大好きな阿弥陀さまに遇いにお寺の法座にお出でているのですよ。

 

 

 
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