
写真は、鹿児島教区S組作成の法語カレンダー5月の言葉です。
信心って、聞くと、何だか、その教義を勉強して、自分の頭で理解して、自分が納得して、自分が信じるもの というイメージですが
仏教の信心は、全くその逆。
「私が」信じる教えではなく、如来にいただく(気づかされて、頭が下がる)教えです。
私の世俗の価値観では、とうてい理解できず、わからない。
決して「私の信心」(私の願い)ではなく、「仏の本願」(仏の願い)
如来が、イイカゲンな私をも、仏(覚者)にしよう と、願ってくださっている、仏の願いのほうが、先手です。
「如来に賜る信心」だから、そこに、私の理屈は一切なく、凝り固まりよう(狂信)がありません

如来が私を覚りに導こうと願われている はたらき・仏心を ただ、ただ、有り難く拝受するばかりです。
