前回、ご紹介した「歎異抄」を拝読していたら、こんな言葉に遇いました。現代語訳の一部です。
(前略)お互いの教義についてことさらに議論し、「わたしの信じる教えこそがすぐれていて、他の人が信じている教えは劣っている」などというために、仏の教えに敵対する人も出てくるし、それを謗るというようなこともおこるのです。このようなことはそのまま、自分の信じる仏の教えを謗り、滅ぼすことになってしまうのではないでしょうか。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/arrow_l.gif)
仏教の有り難さ、尊さは、「私が」が、決して主語にならない点。
「私が」何かを信じ込むことを信心とは言いませんし、「私が」凝り固まった心は、仏心とは、ほど遠い。
南無は、おまかせです。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏のおはからいにおまかせすることですから、そこに「私の」はからいは、何もありません。
信心は、阿弥陀仏より賜る(気づかせていただく)信心ですから、決して、「私が」主体となって、信じるものではありません
そう、あらためて、深く味わせていただきました。
南無阿弥陀仏
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/arrow_r.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/arrow_l.gif)
仏教の有り難さ、尊さは、「私が」が、決して主語にならない点。
「私が」何かを信じ込むことを信心とは言いませんし、「私が」凝り固まった心は、仏心とは、ほど遠い。
南無は、おまかせです。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏のおはからいにおまかせすることですから、そこに「私の」はからいは、何もありません。
信心は、阿弥陀仏より賜る(気づかせていただく)信心ですから、決して、「私が」主体となって、信じるものではありません
そう、あらためて、深く味わせていただきました。
南無阿弥陀仏