お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

「歎異抄」の第12章に

2015年10月22日 | 仏教
前回、ご紹介した「歎異抄」を拝読していたら、こんな言葉に遇いました。現代語訳の一部です。

 (前略)お互いの教義についてことさらに議論し、「わたしの信じる教えこそがすぐれていて、他の人が信じている教えは劣っている」などというために、仏の教えに敵対する人も出てくるし、それを謗るというようなこともおこるのです。このようなことはそのまま、自分の信じる仏の教えを謗り、滅ぼすことになってしまうのではないでしょうか。

 仏教の有り難さ、尊さは、「私が」が、決して主語にならない点。
 「私が」何かを信じ込むことを信心とは言いませんし、「私が」凝り固まった心は、仏心とは、ほど遠い。

 南無は、おまかせです。 
 南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏のおはからいにおまかせすることですから、そこに「私の」はからいは、何もありません。
 信心は、阿弥陀仏より賜る(気づかせていただく)信心ですから、決して、「私が」主体となって、信じるものではありません 
 
 そう、あらためて、深く味わせていただきました。
 南無阿弥陀仏

 
コメント
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