先日、ご紹介した頂礼文(ちょうらいもん)に続き、本当は、 正信偈(「十二礼」や「しんじんのうた」の節)ですが、今回の「若婦人の集い」では時間の関係で省略させていただきます。
今回は、頂礼文の後、和讃・念仏(音楽にのせて)に続きます。
まず、和讃(親鸞聖人が和文で書かれた讃歌)2首
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
(世界中・宇宙中の念仏者《阿弥陀如来にこころをあわせる者》をご覧になり、すくい、おさめとって、決して見捨てることない仏さまをアミダとお呼び申し上げる)
煩悩にまなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり
(自分中心の思いのとらわれによって、真実を見る眼はさえぎられているため、おさめとってくださる仏さまの智慧の光を見ることができない私だけれど、仏さまの大きな慈悲のこころは、そんな私をも見捨てることなく、常に照らしてくださっておられる)
( )内は、私の勝手な現代語訳です。
今回は、頂礼文の後、和讃・念仏(音楽にのせて)に続きます。
まず、和讃(親鸞聖人が和文で書かれた讃歌)2首
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
(世界中・宇宙中の念仏者《阿弥陀如来にこころをあわせる者》をご覧になり、すくい、おさめとって、決して見捨てることない仏さまをアミダとお呼び申し上げる)
煩悩にまなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり
(自分中心の思いのとらわれによって、真実を見る眼はさえぎられているため、おさめとってくださる仏さまの智慧の光を見ることができない私だけれど、仏さまの大きな慈悲のこころは、そんな私をも見捨てることなく、常に照らしてくださっておられる)
( )内は、私の勝手な現代語訳です。