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 国会で仕事をしていた時、こんなに忙しい仕事は他にないと思っていたが、昼休みにブログを書く時間は取っていたし、テレビのニュースを見たり、本を読んだりする時間はあった。就任ホヤホヤの「若葉マーク」の区長だからだろうが、まだまだ日程に余裕がなく、走り続けている。区議会議員の皆さんひとりひとり意見交換をしながらやっていきたいと考えて、会派ごとに全ての議員の皆さんと会う予定だ。また、5000人を超える世田谷区の職員のひとりひとりとも意見交換したいと考えて、「職場訪問」も準備中。もちろん、区民からの声を受けて答える仕組みも構築中で、もう少しすると稼働し始める。

「震災」と「原発被害」の被災地支援を強めるための打ち合わせも進めている。被災地に職員を派遣して支援する直接支援と、被災者を区内で受け入れる身近な支援、あるいは長期にわたるだろう地域での生活再建を地道に支援する取組みも不可欠だ。同時に被災地支援との車の両輪で進めなければならないのが、世田谷区内の「災害対策総点検」だ。首都圏直下型地震や、東海大震災、さらに原発事故も含めて何が出来て何が出来ないのかを明確にしていくことも急ぎたい。現在の科学をもってしても、地震や災害の予知・予測には限界があるのは明らかだが、今、自治体に問われているのが災害の後での「修復力」「再生力」だと思う。

コミュニティ単位での「顔と顔の見える街」こそ、その「修復力」「再生力」が内在する地域なのだと考えている。人口88万人の世田谷区には、「烏山」「北沢」「世田谷」「砧」「玉川」の5つの支所があり、27の出張所がかつてあった。(現在は7つの出張所以外はまちづくりセンターになっている) 何もかも世田谷区役所に集中するのではなくて、「地域のことは地域で決める」という分権・自治をもっと進めたいと考えている。災害などの非常時でない、平常時に起きている問題で話し合い、また顔を合わせる関係が重層的にあってこそ、いざという時に誰彼の細かな指令を待つのではない素早い対応が出来るのではないかと考えている。

 3月11日の東北大震災で日本は変わった。変わらざるをえない時代を迎えた。私自身も被災地支援の自治体の役割を見ながら、「自治体行政」の責任者を志すという大きな選択をした。余震が少なくなり、原発事故の報道が少なくなり、3月の異常な緊張が幾分とけていると、東京などは昔と変わらない今があるようにも思える。しかし、人々の内心は確実に変わっている。誰もが巨大地震の恐ろしさを思い知り、原発安全神話など信じなくなった。そして、次の世代の子どもたちに安心出来る地球を手渡すために、私たちはひとつひとつの石を積み上げて万里の長城を築くような途方もない努力を始めようとしている。

こうして書いていくと「もっと具体的に書いてよ」という声が聞こえてきそうだ。このブログは公務で書いているわけではないが、最終的には私の責任で発信している文章だ。だから、勢いにまかせて思いついたアイデアを次々と羅列するわけにもいかない。ただ、取材やテレビなどでは比較的自由に思っていることを話している。このブログも連日更新状態になれば、だんだん本格軌道に乗ってきたものととらえて頂きたい。

〔追記〕

5月9日(月)には、BS11に夜10時から生放送で出演した。久しぶりにまとまった時間の生番組で、「世田谷区長」としての抱負をジャーナリストの二木啓孝さんと毎日新聞論説委員の松田喬和さんを聞き手に話すことが出来た。コマーシャルを抜いて、まるまる45分ぐらいの時間だったから、テレビとしては相当のボリュームだ。これが、BSらしさだろうか。打ち合わせも本番前の7~8分ほど。台本も渡されない簡素さが新鮮だった。

 

 



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