台風や豪雨などの合間、おだやかな秋の日差しがふりそそいでいました。9月23日、多摩川の河川敷であるプロジェクトが行われました。子どもたちが発案した『宇奈根の渡し!1日だけの大復活!江戸時代へタイムスリップ』です。
多摩川では64年前の1950年まで、両岸を渡し船がつないでいました。昨年、喜多見児童館の子どもたち25人が、「渡し船」に興味を持って調べ始めました。すると、世田谷区宇奈根の対岸には川崎市宇奈根があり、往来が活発だったことがわかりました。そして、渡し船に乗っていたという男性の存在を見つけました。
鈴木光吉さん(79)は「子どもの頃、渡し船に乗って多摩川を渡って畑で作業していた」そうです。そして、10年ほど前に、漁をするために「光吉号」という船をつくっていることもわかりました。
児童館の子どもたちは「渡し船を復活させたい」と意気込んで準備を始めました。鈴木さんから手ほどきを受けて、船もつくることにしました。子どもたちの手からなる渡し船は「夢叶(ゆめ)丸」と名づけられました。輪が広がり、「64年ぶりに1日だけ渡し船を復活させる」というアイデアが具体化していきます。それが、9月23日の午後に渡し船を復活させて8往復させる、という計画になったのです。
8月に、私は川崎市臨海部の工業地帯でエネルギー事情を視察しました。日本で初めてとなる水素発電所を構想するプラントや、首都圏最大のバイオマス発電所、高い燃焼効率を誇る最新型の天然ガスコンバイント発電施設などを見て回りました。そして、福田紀彦・川崎市長にお会いして、子どもたちによる「渡し船企画書」をお見せしたのです。
当日、まず私が「光吉号」に乗って、鈴木さんが竿(さお)さす小舟で多摩川を渡り、福田市長を迎えに行きました。川崎側には〈世田谷区のみなさんありがとう!〉という横断幕が準備されていました。笑顔の福田市長と握手して、渡し船に案内すると、岸を離れて数分で、もう世田谷側の土手に並ぶ子どもたちの歓声が聞こえてきました。舟は7~8分で臨時の渡し場に到着します。
世田谷側の河川敷には、渡し場があった当時の様子が再現されました。地域で子どもたちを支える活動をしている大人が手伝、子どもたちが売り子になった露店も並んでいます。お団子、玉こんにゃく、駄菓子、豚汁などの店のほか、子どもたちによる「渡し場」「渡し船」調査・研究の成果も展示されていました。
こうして、25人の子どもたちの描いた夢がたった1日ではあるけれど、実現したのです。しかも、この行事を後世に語り伝えていくための記念碑も準備されました。
水の事故などを防ぐため、現場には、消防団からボランティアまで大勢のスタッフが待機したり、川の中に入って見守りました。子どもたちの夢の実現のために、多くの大人が汗をかきながら走り回るのもステキな光景でした。
それは、多摩川が「隔ての川」から「結びの川」に変化したひとときでした。
10月半ば、25人の子どもたちが世田谷区長室にやってきました。1年生から5年生まで、みんな目を輝かせています。そのとき、ひとりの男の子から質問が出ました
「来年もできますか?」
「君たちが一生懸命準備すれば、きっと応援するよ」
私はそう答えました。
世田谷区には児童館が25館あり、地域の子どもたちの放課後を過ごす居場所を提供しています。児童館の行事もたくさんあって、地域にひらかれた祭りや、夏には泊まりがけのキャンプに出かけるところもあります。また、このごろは、乳幼児を持つ母親たちの交流の場にもなっているようです。
忘れがたい秋の1日に、子どもたちの成長を支えるベースキャンプとしての役割をあらためて教えられたように思います。