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 もともと『平和と平等をあきらめない』というのは、高橋哲弥×斉藤貴夫対談本(晶文社)のタイトルだ。この本に共感をしたことと、この言葉が今の時代の深い部分を突いていると思い、街頭演説の時にノボリにして立ててみた。風にたなびくこの言葉を脇にマイクを握る。

 10年前なら、「よくある小学校の平凡な学級目標」みたいに響いただろう。けれども、
今、街頭でこの言葉を声にしてみると、時代の波長に噛み合うような気がする。

 イラクでアメリカ軍を警備する傭兵部隊に日本人、斉藤昭彦さんが武装勢力に拘束された。「想定外」の事態に政府も言葉を失った。自衛隊はサマワにいても、戦争参加企業で傭兵として武装行動と戦闘を日常としている日本人がいたということだ。

 ブッシュ政権がイラク戦争を始める前には、中東の人々には日本への親近感があった。ところが、小泉の自衛隊派遣以後は「日本人」は狙われる存在となった。ジャーナリストの橋田さんらは撃ち殺され、香田証生さんは首をはねられた。「米軍=日本人」という図式さえでき始めている。

 そこで、憲法9条を捨てようという声が自民・民主両党の合意事項として進みつつある。

「子どもたちが戦争に行くこと」「新・出征兵士」「徴兵制」などの悪夢は、憲法を捨てることで一挙に現実化する。自衛隊も、9条さえなければ、サマワにこもることなど出来なくなるのだ。すぐに米軍からの指示が来るはずだ。戦地に赴け、と。

 冗談だと思いたいが、格差社会と呼ばれる平等とはほど遠い現実が物凄い勢いで拡がっている。同じバスの運転手でも、外注化した下請け会社の運転手の給料は2分の1だ。「同一労働同一賃金」どころか、「半分賃金」で押さえつけられている。

 中学校の授業は、塾に行くことを前提として組み立てられている。その経済的条件がなければ「分不相応な進路の夢を描くのは、あきらめなさい」ということになる。

 病気になっても年収によって受けられる治療が違ってくる。いい治療は高く、貧しい人々は医療費が工面できないから寿命をまっとう出来ない社会が近づきつつある。

 おさえつけられ、踏みつけられれば、怒りは蓄積する。「平等など存在しない」というあきらめはひややかな冷笑が似合う社会を生む。ねじくれた激情が衝動的暴力犯罪となって人々を脅かす。街はささくれだち、巷で肩が触れるたびにヒヤリとする不安につきまとわれる。

こんな時代の底に潜って希望の言葉をつくりだす、それが政治の仕事だ。

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