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 冗談かと思うぐらいに寒い4月中旬の今日は、本来は季節ハズレのダウンコートが丁度いい防寒服となった。新宿駅から、東京都庁に向かって、記者クラブを訪ねた。都庁記者クラブで、森原秀樹さん(37歳)の参議院選挙公認決定の記者会見に同席するためだ。午後2時半から行なわれた会見には、渕上貞夫社民党選対委員長、服部良一衆議院議員、そして東京都連合から北川雄重代表、中川直人幹事長に私が参加した。

 森原さんは、昨年の春にNGOの世界から私の秘書になってフル回転で頑張ってくれた。総選挙後は、服部良一議員の秘書をつとめている。記者会見は、約30分だったが本人の話に力がこもり、熱意あふれるスタートとなった。昨晩、夜を徹してまとめたという「決意表明」は大変わかりやすい内容だった。以下、紹介することにしたい。

参議院選挙の公認候補となっての決意

森原 秀樹

私と日本、そして世界

 ごく一般的なサラリーマン家庭に育った私ですが、父の出身地が広島県で、また、その町の沖合に旧日本軍が毒ガス兵器を秘密製造していた島(大久野島)があり、幼少の頃から戦争・平和といったテーマに関心を持ってきました。そして、学生時代に参加した学生NPOの活動を通じて、世界数10カ国を訪れる機会を得て、世界的な貧富の格差や不平等を目の当たりにし、「世界のなかの日本」という視点とともに「何かが変わらなければいけない」という強い思いを抱くようになりました。学生NPOのリーダーを務めるなかで、「学生・若者の社会的役割」についても真剣に考えた日々でした。

私と政治・社民党

 学生生活を終えてからの10数年間、国際的な人権NGOの専従スタッフを務めました。人間の命や自由を大切にし、いかなる立場の人をも排除しない社会づくりを、国境を越えた連携を通じて実現しようと懸命に活動した10数年でした。日本に住む日本人で、男性で、高等教育も受けているという意味で、ある意味「勝ち組」に属し多数派=マジョリティである自分が、自分の責任として少数派=マイノリティの人びととどのように向き合いともに活動していけるのか、自問自答を繰り返した日々でもありました。

 その間、問題ある法制度を改廃したり、新たに必要とされる法制度を実現したりするために、国の行政や各政党、あるいは国連などにさまざまな働きかけを試みました。話を聞いてくれて共に動いてくれる政党・議員なら党派は問わず接触しました。そうした中、人権や平和を政策にかかげ、一番親身になって相談に乗ってくれて、NGO・市民運動とともに動いてくれたのが社民党でした。

 同時に、そうした活動に携わっていた年月は、新自由主義的政策と二大政党制が強力に推し進められた10数年でした。「強者の論理」「数の論理」ばかりがまかり通るようになり、「弱い者」や「排除された者」、「踏まれた側」の視点がないがしろにされ、少数者の意見が「多数決民主主義」という政治システムの中で無視されていくのをこれ以上見過ごすわけにはいかないと、強く思うようになりました。

 同時に、NGO・市民活動に携わる中で、力不足も大いに実感しました。今、NPOの時代と言われていますが、真に独立し、多くの人々に支持を広げ、政策形成にも影響力を持つNGO・市民運動は、まだ十分には育っていないように思います。いま、新しい世代がもっと力をつけて、いろいろな立場や能力を持った人びとがつながったうえで、少数派や少数者、社会的に弱い立場に追いやられている人たちの現場の声をしっかりとうけとめて、「NGO・市民運動と政治プロセスが新しい形で有効につながること」が必要だと考えるようになりました。しかし、少数派や少数者、社会的に弱い立場に追いやられている人たち、そしてNGO・市民運動の「現場の声」を反映させるような政治が必要なのにもかかわらず、社民党の議席数が減っていくのを目の当たりにして、危機感を募らせてきました。

 なんとしても、マイノリティ=少数派の人びとの立場に立てる政党=社民党が必要だし、少数者の声や存在を意識的・無意識的に無視してしまう危険性のある二大政党制のなかで、しっかりと役割を果たすべきだと強く思うようになりました。そのために力を尽くすことが、私が「政治の世界」に身を転じようと決心した理由です。

「政治の世界」への転身

 そうした思いを抱き、昨年、縁あって国会議員秘書に転身し、衆議院総選挙で、それまで私が最も応援していた保坂のぶと前衆議院議員の秘書として選挙事務所(東京8区)で活動する機会を得ました。選挙結果は残念でしたが、保坂のぶと選挙では、旧来から社民党を支持してくださる労働運動・市民運動に加えて多くの市民ボランティアが結集し、とても大きな力を発揮するのを目の当たりにしました。私はそこから、市民運動と政治の新たな関係づくりのヒントを得たように思っています。

 NGO・市民運動が力をつけ、それが政治(政党)を後押しし、そして力をつけた政党が市民運動をバックアップし…という、いわゆるウィンウィン(win-win)の関係をつくっていかなくては、政治にも市民運動にも未来がないように思います。社民党は、その役割を担えるはずで、そのためには、社民党は変わらなければならないとも思っています。

 挑戦を決意―連立政権を建て直すために

 総選挙後、やはり社民党の服部良一衆議院議員(比例近畿ブロック)の政策担当秘書として、待ち望んできた「政権交代」という政治の歴史的転換現場の末端に身を置くこととなりました。そして、服部良一議員がそのライフワークとしてきた沖縄の基地問題(普天間問題)への取り組みを中心に、この7カ月間、連立政権の現場を中枢に近いところで見ることになりました。

 普天間問題やアフガニスタン支援、いわゆる「密約」問題、高校無償化、労働者派遣法改正、中小零細企業支援政策、無駄な公共事業の見直し、原発政策、男女共同参画、子育て支援……この間自分が関わった課題を振り返ると、ひとつはっきりしていることがあります。それは、連立政権の一角を担う社民党がもっと力をつけて、今までの政治にはなかなか届かなかった声―少数派や少数者、社会的に弱い立場に追いやられている人たちや市民運動・労働運動の現場の声―を、政権中枢に届けて具体的な変化をもたらす使命を負っているということです。

 そうした立場から、連立政権を建て直したい、その役に立ちたいと強く思うようになり、今回、立候補を決意しました。まだ政治経験が浅い私ですが、東京で育ち生活する者の一人として、さまざまな立場の人びとと一緒に、広がりがあって楽しい選挙活動を展開し、全力で議席獲得を目指します。




経 歴

森原 秀樹(もりはら ひでき)(37歳)

主な肩書き 前国際NGO事務局長、衆議院議員政策担当秘書

学歴

1985年3月 世田谷区立用賀小学校卒
1988年3月 慶應義塾普通部卒(バスケットボール部に所属)
1991年3月 慶應義塾高等学校卒(競走部に所属)
1997年3月 慶應義塾大学経済学部卒
*国際的な学生NPO、アイセック(国際経済商学学生協会)で活動。日本委員会委員長を務める。

職歴

1994年4月~1995年7月 アイセック・インターナショナル (在ブリュッセル)副委員長
*日本人初の国際本部職員として、国連の「世界社会発展サミット」に世界の若者の声を反映させるプロジェクトなどを担当。

1996年4月~1997年3月 ハビタット日本NGOフォーラム事務局次長、事務局長
*「第二回国連人間居住会議(ハビタット2)」に日本から参加したNGOネットワークの運営。阪神・淡路大震災被災者やホームレスの人びとなどと行動。

1997年4月~2001年12月 社団法人アムネスティ・インターナショナル日本事務局
*各種キャンペーンを担当。アムネスティ国際評議員会議(世界大会)にも日本代表団として参加。アムネスティ労働組合の執行委員長、役員も歴任。

2002年1月~2008年12月 反差別国際運動(IMADR)事務局次長、事務局長
*日本を拠点とする国際人権NGOの運営全般を担う。2005年4月からは同日本委員会事務局長を兼務。

2005年9月~2008年9月 聖学院大学非常勤講師
*NPO・NGO論(国際協力)を4年度担当。

2009年4月~2009年7月 保坂展人衆議院議員(社民党)秘書
2009年8月~現在   服部良一衆議院議員(社民党)秘書

以上

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