今日、久しぶりに衆議院文部科学委員会が開かれた。10月14日以来なので、国会開催中ながら50日間もお休みしていたことになる。「与野党のねじれで法案が一本も通らない」と言っている国会の光景として読者の皆さんの記憶に留めていてほしい。今日は、学校法人宮崎学園の経営問題を文部科学省高等教育局私学部長に聞いた後で、渡海紀三郎文部科学大臣に「沖縄戦『集団自決』教科書検定問題」を質した。教科書会社の「訂正申請」を受けて、教科書審議会の議論の経過と内容を公開し、文部科学大臣自身がまとまった見解を示すことを求め、渡海大臣も「そのような必要はあると考えている」と答弁した。
私は、1991年に起きた暉峻淑子さん(埼玉大学名誉教授)の「教科書コラム削除問題」を事例に取り上げた。ベストセラーになった『豊かさとは何か』(岩波書店)を一部要約したコラムを掲載した日本書籍の中学「公民」の教科書に文部省の検定意見がついた。検定意見は、
「事実関係に誤りがある」「生活保護行政に対する見方が一面的だ」というもので、日本書籍のコラムに書かれていた「福祉事務所に抗議の手紙を残して……無理に生活保護を辞退させられて自殺した」という部分についてだった。日本書籍側は全文削除しなければ合格させないという文部省の意志を感じて、全文削除して他のコラムと差し替えた。
文部省の検定意見の根拠は、1988年厚生省社会局長の国会答弁にあった。東京荒川区の老女が福祉事務所を非難する遺書を残して自殺したことに対して、局長答弁は「遺書は迷惑をかけたことへのお詫びとお世話になったことへの謝意に尽きており、直接の死因は環状動脈硬化症による病死と推定」との答弁が「検定意見」に結びついたのだった。
著者である暉峻淑子さんは、著書を文部省によって全面否定されたことに怒り、老女の遺書を示して文部省に検定意見の撤回を迫った。その後、国会で野党議員が文部省を追及し、幾度ものやりとりを経て、1996年7月に当時の菅直人厚生大臣が88年の厚生省局長答弁の誤りを認めて謝罪し、奥田幹生文部大臣も検定の誤りを認めた上で、教科書課長から暉峻さんへ謝罪文が届けられた。そして、「訂正申請」の上に、暉峻さんのコラムは1997年の教科書に復活したという出来事である。(以上の経過は、『教科書レポート97』を参考にまとめたもの)
文部科学省の初等中等局長に「執筆者・教科書会社に責められるべき点はありましたか」と問うと、「とくにありません」とのこと。検定意見が誤りであり、この訂正と謝罪を行っていながら、特に落ち度のない教科書会社が「訂正申請」をするという制度の矛盾は、この時にすでに顕著になっていたはずである。
渡海文部科学大臣は、「教科書検定制度の見直し」と「今回の沖縄戦記述問題への対応」についての方針を問うた。とりわけ、「検定意見」が絶対的なものではなく、また審議会の議論の公開もふまえて、文部科学大臣として「歴史の風雪に耐える、諸外国から見てもしっかりした骨格の見解」を示してはどうかと促した。このやりとりについては、『琉球新報』(12月5日付夕刊)が以下のように報道している。
「集団自決」検定 大臣見解表明へ
渡海文科相 訂正決着後の談話視野
【東京】高校歴史教科書の「集団自決」(強制集団死)検定問題に関し、渡海紀三朗文部科学相は5日午前の衆院文部科学委員会で、現在審議中の教科書出版社の訂正申請に結論が出た後、大臣談話も視野に入れて何らかの見解を出す考えを明らかにした。保坂展人氏(社民)に答えた。
保坂氏が「訂正申請の結論が出た後に何らかの見解を示すべきだ」とただしたのに対し、渡海文科相は「そのような必要はあると考えている」と表明。「大臣見解は、総理談話や官房長官談話に匹敵するものにしてほしい」との質問には、「就任以来この問題を扱ってきたわたしとしては、そういう責任があると考えている」と述べ、談話の可能性も示唆した。
総理談話については「首相も(県民の思いを)重く受け止めると答えており、その辺の考えがあるのではないか。談話を出すかどうかは首相自身が決めることだ」と答えた。訂正申請の審議内容の透明性については「審議会委員の意見も尊重し、委員も同意するという前提の下、できるだけ透明度を上げて、最終的にわたし自身も説明する必要がある」と述べた。
琉球新報(夕刊) 2007年12月5日
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