事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」

2008-06-13 | 邦画

 高校生のころ、図書室で新任の副担任と話していた。
「60年安保のとき、東大生がひとり死んだでしょう?あの人の苗字の読み方がわからないんだ。」
「ああ、白樺の樺ね。あたしもわからないなぁ。」
正解は樺(かんば)美智子。わたしより5年ほど年長であるだけで、彼女の名前すら読めないノンポリ世代が台頭していたわけだ。

「新左翼の連中なんてものは、ありゃ人間じゃないから。」
社会人になって初めての職場では、アンチ日教組な教員が平然と言い放っていた。長い通勤路でハンドルを握りながら、「社会人と学生の言い分が真っ向からぶつかったとき、正しいのははたしてどっちなんだ」と考えた。結論は即座に出る。「“生活”に惑わされていない分、これは理屈として学生の圧勝だろう」と。

“人間じゃない”とまで新左翼が思われた背景に、1972年2月の「あさま山荘事件」があることはまちがいない。連合赤軍の“兵士”が、軽井沢のあさま山荘に立てこもり、1500人もの警官隊に包囲された攻防戦は、十日間ぶっとおしでテレビ中継され、NHK、民放を合わせた視聴率は90%超。NHKの10時間の報道特別番組は平均50.8%を記録している。これは現在にいたるまで、報道の視聴率日本記録(Wikipediaより)。要するに、当時の日本人はみんなこの“左翼の敗北”の現場を見ていたのだ。わたしは小学6年生で、学級文集だかの印刷のために日曜に登校しており、職員室のテレビで当時の担任と中継を見ていたのをおぼえている。

 あのとき、赤軍の側に死者が出ていたら(赤軍が樺美智子のようなシンボルになったら)、それからの左翼事情は大きく変わっていただろう。しかし後藤田正晴警察庁長官が指揮した警察は、警察官2名、民間人1名の死者を出したものの、歴史的に見れば圧勝したといえる。あさま山荘事件を、警察の側から描いたのが原田真人の「突入せよ!あさま山荘事件」(’02)であり、この映画を観て激昂し、若松孝二監督が赤軍の側から描いて見せたのが「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」なのだ。

 平日の朝イチの上映であるにもかかわらず、山形フォーラムには団塊の世代を中心に20名ほどの観客が入っている。ひょっとしたら、自分の世代の闘争にまだケリをつけられずにいる人も駆けつけたのかもしれない。以下次号

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