日本で「殺し屋」の物語を成立させるのは、かなり難しい。
この国では、やくざ・暴力団などと賤称される組織暴力が、意外に一般人との距離が近いため、殺人を依頼する相手はどうしても身近なやくざということになろうし、義理人情や仁義といった建前がかろうじて生き残っているため、ドライに金銭を報酬として殺人を請け負う業種は、看板を掲げても(なわけないが)、復讐の対象になりやすいだろうから。ゴルゴ13がめったに日本を舞台に仕事をしないのはそのせいかも。
だから現実の殺し屋のパブリック・イメージは“シャブ漬けで、殺しの前夜には愛人の身体に溺れる鉄砲玉ヒットマン”……偏見にしてもすいません通俗で。
伊坂が書きたかったのは、だから“どこでもない日本”における、おとぎ話としての殺し屋たちだろう。案山子がしゃべったり、ギャングがやけに陽気だったりする設定の延長線。そしてそれはかなり成功している。まるでローレンス・ブロックの殺し屋ケラーのシリーズみたい。みんなおしゃべりだし。それにしても“押し屋”と“自殺屋”という設定にはおそれいった。
ちょっとしたひっかけがあるラストに疑問をもつ読者もいたようだが(ラストまで読んだら、P158~単行本で~を読み返すこと)、これは主人公がカメラに向かってウィンクするような、しゃれた映画的趣向とみた。血なまぐさい物語はこれで終わりですよ、って合図だと。今回もかなり読ませる。ぜひ。
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