大滝詠一 夢で逢えたら
PART1「スピーチ・バルーン」はこちら。
はっぴいえんどのメンバーが集まる過程は、まるで七人の侍のようだ。
「絶対お前とぴったり合う人間がいるから紹介する」って言われて、会って話をしたら、本当にぴったりだった(笑)。それが中田佳彦(中田喜直の甥)。彼は立教行ってて社会学部で細野(晴臣)と同じクラスだったの。2人でサイモン&ガーファンクルみたいなのやってたの。
(ライブハウスの)エイプリルフールで松本隆と会ったの。細野宅でソファに座って、黒い衣装に身を包んで本を読んで(笑)、ひとことも口きかなかった。慶応だし、やな野郎だなって思ったんだよ(笑)
リードギターを誰にしようかってことで、3人ぐらい候補がいたんだけど、細野が鈴木茂を連れてきた。茂は「12月の雨の日」のテープを聞いてすぐにあのフレーズを弾いたんだって。それで松本と細野は感激してさ「おお、もうこいつしかいない」ということになったらしい。
……天才は天才を呼ぶというか、実は東京におけるロックシーンはそんなに厚くなかったというか(笑)。
ソロになった大瀧は、プライベートのレーベル「ナイアガラ」を設立する。なにしろ大きい瀧ですからね。
契約していたレコード会社が放漫経営などで悪名高かったエレックレコードだったこともあって(吉田拓郎や泉谷しげるはいちはやく逃げ出していた)、かなりの苦境に陥る。ただし、ラジオDJとしてラジオ関東でやっていた「ゴー・ゴー・ナイアガラ」でマニアを熱狂させてはいたようだ。というのも、田舎ではなかなかラジ関を聴くことはむずかしかったの。SONYのスカイセンサー5500をもってしても。
そして、あの曲の話になる。
沢田研二の仕事のラインからアン・ルイスの曲を、って話が来たんで「夢で逢えたら」が出来た。そしたら(吉田)美奈子のディレクターが「ぜひとも、それ欲しい」って言い出してね。美奈子本人はあまり乗り気じゃなかったみたいだけどやることになった。
……日本の曲でもっともカバーされた「夢で逢えたら」はこのようにして生まれたのでした。わたしはシリア・ポールのバージョンが好きで好きで。以下次号。