四方田犬彦の「心は転がる石のように」は、すぐれたイスラエル滞在記であると同時に、映画史研究家としてめぐりあったさまざまな出来事を並列して語っている好著だ。そしてそのなかに、ひとつの美しいエピソードがある。四方田が、映画監督若松孝二と、オーストリアの映画祭に訪れたときのことだ。抜粋して紹介しよう。
彼は多忙なスケジュールのなかを縫って、ドナウ川の向こう側にある遊園地を訪れ、念願を果たした。ひどい高所恐怖症であったにもかかわらず。
いったいどうしてそんなに観覧車に拘ったのですか、わたしは若松孝二に尋ねた。彼がいよいよ東京に戻るという前日のことである。いやあ、たいしたことじゃあないよと、若松は照れくさそうにいった。友だちの代わりなんだ。
何十年にもわたって親しい友人だった人間が、目下、癌が高じて意識不明の状態にある。そいつは子どもの頃に満州から引き上げてきて、中学を卒業すると、田舎で映画館の看板絵を描く仕事に入った。最初に任せられた仕事が、キャロル・リードとオーソン・ウェルズが出た『第三の男』だった。第2次大戦直後のウィーンを舞台に、愛と陰謀が駆けめぐる有名なフィルムである。二人の男がその最初の方で観覧車に乗り、アメリカの爆撃を受けて荒廃した街角を高みから眺めながら、平和というものの虚しさを語り合うという場面があって、一度観た人には忘れがたい印象を与えている。
16歳の少年は、与えられたモノクロの小さなスチール写真だけを資料として、いきなり巨大な看板に観覧車の絵を描かなければならなかった。彼はウィーンどころか、ヨーロッパがどんなところかも皆目見当がつかないままに、一生懸命に努力し、なんとかそれを完成させた。心のなかではいつかウィーンに行って、本物の観覧車に乗ってやるぞと誓いながら。
やがて東京に出た彼は、赤塚不二夫という名前の有名な漫画家になった。だが多忙な歳月が過ぎ去り、残念なことにもはやウィーンに行けない身体になってしまった。若松孝二は彼の代わりに、観覧車に乗ろうと心に決めたのだ。
……そして赤塚よりも先に、2006年7月12日、彼がふたたび意識を取り戻すことを信じて看護をつづけた奥さんの眞智子さんが、先にくも膜下出血で亡くなってしまった。彼女は自身のブログに(結果的に絶筆になった)こう綴っている。
「日にち、空いちゃってごめんなさい…フジオちゃんもいたICU、つきそいしてたのに、今度はわたしが入っちゃった。」
わたしはこの男女の別れが、「第三の男」のラストとは大きく違った意味で哀切であり、かつ幸福だと思う。合掌。
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