事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

池田小事件

2007-10-18 | 社会・経済

Ikeda あの日、校務員が外勤から帰ってきていきなり「市役所のテレビでやったけんでも、とんでもねー事件おぎっだけよ。」と。早速職員室のテレビをチェック。

『大阪教育大学付属池田小学校で~』

「おいおい5人も死んだのか。」出入りの業者が来るたびに死者が増えていることを知らせてくれる。結局8人死亡。計23名が刺されたことになる。

 宗教的、あるいは政治的熱狂なしに、これだけ悪意が暴走した事件も珍しい。抑圧が暴発した点で津山三十三人殺し(八つ墓村のモデル)に似てはいるが、被害者が子どもであることで無残さも際立つ。しかも現場は学校。「安全であるべき学校で」とのコメントをどんな媒体でも連呼していたが、不良事務職員である私は、「(学校が)そんなに信頼されていたのか」と初めて知る思いだった。皮肉ではなしに。不良だホント。

 マスコミやネット上では、相変わらず無責任な情報が飛び交っているが、その無責任さに私も乗っかって、この事件のことを少し考えてみる。
 論点はとりあえず二つ。

(1)宅間とはどんな人物なのか。
 宅間容疑者については、ワイドショーが中心になってまた余計な過去を暴きたてている。四回の結婚とか、学歴コンプレックスとか、通院歴とか。彼の精神病が偽装だったと強調することで(リークしているのは検察か?まったくもう)、実名報道云々の問題をマスコミは忖度していないが、松本サリン事件や、仙台の筋弛緩剤事件の(あの介護士、無実かもしれないらしい)反省もどこへやら、今回も人権侵害が著しい。容疑者の小学生時代の写真やら作文やらをマスコミに提供する同級生どもの下賎さにもヘドがでる。尼崎の工業高の同期生だったらしい松本人志がひとこともこの事件にふれないのとは好対照だ(吉本が抑えているのかも)。

Photo_2  その下賎な情報をもとに類推するのもくやしいが、最初の妻(某有名作家の妹とのことだが、誰なんだ?)が19歳年上だったこと、3番目の妻を困らせてやろうと事件を起こしたらしいこと、ビデオのレンタル延滞料が10万円ほどたまっていたこと……この男、ものすごく依頼心が強く、庇護されたいという欲求が満足されないと暴発する、要するにガキなのでは?……5歳年上の女と結婚している私が言うのだから少しは説得力あるでしょ。ないか。ただそう考えると、自分たちとそう別世界に住む人間ではなかろうという気にもなる。キレやすい十代の連中ならなおさらではないのか。

 重要なのは、自分が宅間になっていたかもしれない、という怖れを、どれだけの人間が感じ取ることができるかだと思う。この発想なしに、安全な社会づくりなどというものがどれだけ実現できるかは甚だ疑問だ。日本人の悪い癖は、全てを《家》の問題にすりかえ、他人事にして片付けてしまうことだろう。「だからあのウチの人間は(⇒ウチはまともだから関係ないもんね)」、といった具合に。宅間が精神病を装ったか否かにかかわらず、精神病患者を家族に持つ人たちが、今どれだけつらい思いをしているか、少しは思いやる心根が我々にあってしかるべきだ。精神科に通院している知人は、ほとんど絶望しているぞ。

ハンセン病の問題がこの直前にあったことは天の配剤というべきだ。とにかくどこかに押し込めて目の前からいなくなってしまえばそれでいいとの安易な考えが(しかもそれ⇒ライ予防法が90年以上続いた!)あるかぎり、第二第三の宅間を生んでしまうことは自明なはず。日本人が少しは学習していればいいのだが。

確かに責任能力の有無を問う刑法三十九条には問題があるのだろう。措置入院、にも改善の余地はある。だがその前に、精神病患者を、キチガイ、と見なして排除する姿勢そのものが問われている。この時期にこんなことをいうのは徒労のような気がするが、今回のこの事件で、精神科の敷居が、この国ではまた高くなってしまったことは、まことに残念というしかない。その意味でも、宅間の罪は、本当に深い。

(2)学校を守るために何が出来るのか。
みなさんの学校でもやっているでしょう。玄関の施錠とか、職員の巡回とか。
『通達が来る前からうちの学校は巡回してるぜ。えらいだろ。』と千葉の荒れた中学に勤める友人は自慢するが、それは意味が違うって。

Takuma とにかくこんな事件が起こった以上、何らかの手立てを講じなければならないと行政が考えるのは、住民へのポーズだけではないと信じる。
不良らしいことを言えば、もし私に小学生の息子と娘がいなかったら「んー、池田小はあれだなあ、交通事故みたいなもんだって思ってもらうしかないよなあ」とかPTAあたりが聞いたら出刃包丁でも持ち出しかねない発言をかましていたかもしれない。だってこれらの対応って、私たちが求めてきた開かれた学校と真っ向から相反する姿勢なのである。こんなことでまた学校がスタンドアローンに陥ってしまうのはなんとしても防ぎたい。管理管理と叫びつづける管理職に独善への格好の口実を与え、子どもは、《対教師》《対クラスメイト》という狭い人間関係の中でまた息が詰まってしまう。こんなことでいいわけがない。

でも、地域の協力のもとに学校の安全性を高める……この指針は聞こえはいいが、要するに江戸時代の五人組制度のように、あるいは戦時中の隣組制度のように相互監視体制をとれ、ということだろう。これでは息苦しさが社会全体に広がるだけだ。

それではハードの面で何らかの対応をとり得るのか。池田小に限らず、本気で殺ってやる、と考える連中を排除するのはまずほとんど不可能だ。池田小の職員は本当によくやったと思う。それでも、23人なのだ。心理的な障壁を狙って事務室を受付的な存在にする案もあるようだが、はたして事務室の獲得と引き換えに肉体的恐怖を受け容れる下地が私たち事務職員にあるだろうか。

第一、宅間が前は学校職員だったという事実は、学校の外からの異常者の侵入へのガード云々という次元をはるかに飛び越える意味を持つ。民主党の鳩山が「社会全体の問題として~」と発言したことに、保守層からは「この人権屋が」との冷笑が浴びせられているが、結局のところ、他にどんな解決策があるというのか。宅間の包丁が切り裂いたものが、子どもの体だけではなく、学校というものの安全神話だった以上、学校自体が何かをしなければ世間は納得しない、それはわかるのだが…。

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1 コメント

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いつも楽しく観ております。 (職務経歴書の書き方の見本)
2010-08-01 16:45:57
いつも楽しく観ております。
また遊びにきます。
ありがとうございます。
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