陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

殴る男、殴られる女

2010-09-21 23:09:26 | weblog
わたしが大学に入って間もない頃のことである。寮のすぐ近くに、いわゆる1K、六畳サイズの部屋に台所がついている学生マンションがあった。マンションといっても、敷地といえば普通の一軒家分くらいしかない。そこに三階建てのマッチ箱のような白いコンクリートの建物が建っていたのだ。

寮を出て路地を歩くと、そこの出入り口である階段のところに出る。だから、よくそこの住人とは顔を合わせた。女子学生も、男子学生もいるようだった。

いつものように大学からの帰り、その脇を通りかかった日のことである。なにやら悲鳴のような声が、頭の上の方から上がったかと思うと、二十代半ばくらいの女性が何ごとか叫びながら、ダダダッと階段を駆け下りてきて、呆然としているわたしの目の前を駆け抜けていった。後ろ姿を見送ったわたしは、その女性が、片方の足はサンダル、もう片方の足はスリッパだったので、あれでは走りにくいだろうなあ、と、いささか的はずれの感想を抱いたものだ。自分の足元に構うゆとりすらないほど、動転していたのだろう。

それから数日後(実際には数ヶ月ぐらい経っていたのかもしれない)、いつものようにそこの前を通りかかると、今度は男性がひとり足早に階段をおりてきた。そこへ、上の方でドアが開く音がしたかと思うと、女性が何やら叫んでいる。と思うと、電話帳だったか、雑誌だったかがわたしめがけて、というか、正確にはわたしの脇を通っていった男性めがけて飛んできた。男の方は、自分のかたわらをかすめて落ちたそれを、一瞥するでもなく、うつむいたまま足早に歩いていく。顔色の悪さと、表情の暗さが目に焼き付いた。すぐに追いかけるように降りてきたのは、例のあの女性だった。

猛ダッシュで追いかけたものだから、通りに出る手前、路地の入り口のところで女は追いつく。そこで男を引き留めると、人目もはばからず、大声でわめき始めた。ひどい、とか、それですむと思てんの、とか、言葉の切れ切れしか聞こえてこないが、とにかく行こうとする男の腕に両手でしがみつくようにして、わあわあとわめいている。男の方が邪険に腕をふりほどくと、女は吹き飛んでしまった。男は歩いていき、女の方は起きあがると、体勢も立て直さないまま、よろよろしながらなおも追いすがる。今度は背後から腰に手を回し、抱きつくような体勢になった。すると、男は体をゆすりながら、何とか女をふりほどこうとする。女は必死でしがみつく。その腕を男はつかむと、反対側の手で、女の頬を思いっきりなぐりつけた。平手打ちではない。手首の固いところでなぐったのである。鈍い音がして、女はそこへ倒れた。男はそのまま歩いていく。通りへ出ると、姿はわたしのところからは見えなくなってしまった。

見ると、その女の人は地面に倒れたままだ。わたしは急いで駆けよった。大丈夫ですか、と助け起こすと、その人は顔を上げてわたしの方を見た。鼻血が流れ、わたしは慌ててカバンからティッシュを探し、相手に渡した。その間にも、顔は見る見る腫れていく。殴られた人間の顔は、こんなふうになるものか、とわたしは思わず見入ってしまった。

その人を助け起こし、ふらふらするのを助けながら、そのマンションのところまで一緒に歩いた。階段下で、その人は、「もういいの、どうもありがとう」とわたしに礼を言う。気にはなったが、どこまで関わっていいものやらよくわからなかったし、正直言うと、係わり合いになるのが、恐くもあったのだ。わたしは、お大事に、と、わけのわからないことを言って、その人と別れた。

わたしには一切関係ないふたりだったが、一部始終を見ていたわたしの心臓は、ずっとドキドキと鳴りっぱなしだった。そんなふうな男女関係のもつれというか、修羅場というかをそれまで見たことがなかったのだ。

それまでわたしが知っていた、「つきあっているふたり」というのは、実際に親密な関係を持っているにせよ、もっと楽しげだった。ケンカしようが、仲違いしようが、その結果、別れることになったとしても、たとえていえば中島みゆきの歌に出てくるような、恨んだり、ひそかに怨念を燃やしたりするようなどろどろとした感情とはおよそ無縁で、部屋で中島みゆきの歌を聞いて、陰々滅々となっている子でさえも、間違っても「修羅場」など繰り広げそうになかった。

殴られた女性は、実際の傷以上に、ひどく打ちのめされているように見えた。何というか、あんな関係は間違っている、あんな男は許せない。でも、あの女の人は、きっとあんなことをされてもあの男と別れないのだろうなあ、と考え、なんともいえない気がした。大学院生なのか、もっと上の年代の人なのかはわからないけれど、大人の恋愛はそういうものなのかもしれない、と、恐いようにも思ったものだった。

まだDVなどという言葉が出てくる前のことだったのだが、のちにその言葉を目にするたびに、見る見る腫れていったその人の頬を思い出したものである。

それから月日は流れ、その女性の歳も過ぎ、自分なりに経験も重ねてきたけれど、わたし自身は、幸か不幸かそんな修羅場とは無縁の日々を過ごしている。DVについての報道を見て、あのときのことを思い出しながら、自分に暴力をふるうような相手と別れない女性のことを、ひどく遠いものに感じていた。どこかで、自分はそうならない、なりたくはない、という気持ちもあったのかもしれない。

ただ、それからさらに歳を経て、何というか、考え方が少し変わってきた。当時は、そういう人は間違っている、不幸だ、と一面的に思っていた。けれど、彼女たちが、そんな濃密な人間関係をこそ求めているのだとしたら、その結果(殴った、殴られた)だけをとらえて、不幸だ、間違っている、と言えるのだろうか。確かに暴力で傷を負う、精神的にダメージを受けるというのは、望ましいことではない。できればそういう目に遭わないでいてもらいたい。それでも、求めているのが、そうしたぎりぎりの関係の人もいる。そういう関係を幸せと思う人もいる。
そもそも、人間にまつわるあれこれを、幸福・不幸の二項対立で語ることができるのだろうか。

その関係を間違っていると、いったい誰に言えるのだろう、とも思うのである。
肯定はしないけれど、否定もしない。そんな立ち位置でいる。