陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

自慢の弊害

2010-09-22 23:27:10 | weblog
ちょっと前のことになるが、ついていたテレビを見るともなしに見ていたら、奇妙な人が出ていた。こう書くと、すぐにわかるほど有名な人なのか、もしかしたら新手のお笑いなのかもしれないけれど、若い男性が自分のことを頭が良い、とひたすら自慢しているのだ。

さすがに「ぼくは頭が良いんです」とあからさまには言わないが、「自分はワセダを出た」「自分は英語とフランス語(ドイツ語かイタリア語だったかもしれない)がペラペラだ」「三歳のときにナントカができた(何ができたかは忘れた)」……と、口に出すすべてがこんな具合なのである。

別に、自分は早稲田大学出身です、と言っている人がみな、自慢話をしているわけではない。単に事実を述べているだけのことも多い。そういう人と、自慢話がどうちがうかというと、事実を述べている人が、そこからつぎへ話が進んでいく(「自分は97年の卒業ですが、田中さんは何年ですか」という具合に)のに対し、自慢話はそこで止まってしまう。というのも、自慢話の「自分はワセダを出た」は、

大前提:ワセダを出た人は頭が良い
小前提:自分はワセダを出た
結論:ゆえに自分は頭が良い

という三段論法の大前提と結論を省略した表現だからである。自分の中で結論を出してしまっているのだから、話がそこで止まってしまうのも当然だ。

結論を出されてしまっては、聞き手は「あっ、そう。良かったね」以上の反応を示すことはできない。つまり自慢する人は、周囲とのコミュニケーションをみずから遮断しているわけだ。だから、自慢を始める人がひとりでも出てくると、会話は停滞するのだ。ところが自慢屋は、その停滞を良いことに、独演会を始めてしまう。みんなが内心うんざりして、陰で悪口を言われることになるのも気がつかずに。

ところで、自慢には、コミュニケーションを不活性化してしまう以外にも、難点がある。それは、自慢している当人をバカに見せる、ということだ。

自慢する人は、三段論法の大前提の正しさを当たり前だけれど前提として話をしている。だが、頭が良いとはどういうことか、とか、どこかの大学を出ている人は等しく「頭が良い」という形容が妥当なのか、とか、ちょっと考えてみただけで、そんなことは一概に言えるものではないことに気がつく。

さらに語学を少しでも真剣にやった人ならわかると思うけれど、母語ではない言葉は、深く勉強していけばいくほど、母語と同じようにはではない壁にぶち当たるものだ。語彙も知識も増えれば増えるほど、母語で考えることと、あとから学んだ言葉で考えることのギャップに悩むようになる。「ペラペラ」なんてことを平気で言える人は、英会話の例文程度の会話したことがなく、それで不自由を感じないほどの貧弱な言語環境にあるのではないか。

つまり、自分のことを「頭が良い」と主張する人は、その人がどれだけ狭い、限られた世界でしか生きてこなかったか、そんな狭い世界しか目を向けてこなかったかを、自ら明らかにしているのだ。逆に、自分のできなさ、能力のなさ、欠陥、足りない部分を知っている人は、自分の能力を超える世界を知っていることでもある。できない自分を知っている人は、それを理解できるほどの能力を持っているとも言えるのだ。

となると、人前で自慢することには、どう考えても得なことはなさそうだ。

テレビに出ていた彼は、そういうことがわかっていながら、あえてそんな「憎まれっ子キャラ」を演じているのだろうか。何となく見ている限りでは、単純に自慢するほど純朴な男の子を、わざと「キャラを演じている」ことにして、みんなで笑い物にしているように見えたのだけれど。