似たような話を続ける。
昨日は、自分でもどうしてそんなことを言ったかわからないような嘘を、つい口にしてしまって、あとになって困る、という話を書いた。
あとになって困るのは、もちろんつじつまが合わなくなるから困るのだが、もうひとつ、どうしてそんなことを言ってしまったか、自分でもうまく説明ができないからだ。
たとえば旅行のおみやげといって、温泉饅頭をもらたとする。ところがあなたは甘い物が苦手で、饅頭など大嫌いだ。けれども、そう言って断るのも気まずいから、ありがたくいただいて、数日放置したあと、罪悪感と一緒にゴミの日に出してしまったとする。
数日後、温泉饅頭をくれた人と一緒にいるところに、別の人がやってきた。その人はにこやかに、「このあいだ、うちも旅行に行ったんだけど、あなた、お饅頭、ダメだったよね、かわりにしば漬けを買ってきてあげた」と話しかけてくる。おかげで温泉饅頭をくれた人も、あなたも、たいそう気まずくなってしまう……。
だが、こんなときの嘘は、気まずいけれど、嘘の理由は明白だし、相手の好意を無にすまいとした善意から出たことは伝わるから、気まずくはなっても、困ることはない。
それに対して、なりゆきとか、その場の勢いで、なんとなく口から出てしまったような嘘、別にそれまで好きでもなかったようなタレントを、ファンだ、と思わず言ってしまったり、いない叔父さんをでっちあげてしまったり、飼ってもいなかった犬を存在させてしまったり、というのは、それが嘘だと明らかになったとき、嘘自体はごくごく罪のないものであっても、その深刻さのレベルとは無関係に、ついうっかり口に出してしまった人を困らせることになる。
というのは、わたしたちは日常的に、ある行為をすることに、かならずその理由、すなわちその行為の「動機」があると考えているからだ。その行為が望ましくない結果をもたらしたとき、周囲の人はかならず「どうしてそんなことをやったのか」と行為の「動機」を求める。
それが、なんでそんな嘘を言ってしまったのか、自分でもよくわからない。相手はてっきり何か深い動機、もしくは理由があったのだろうとかんぐってくる。どうして言えないの、と問いつめられ、いよいよ困ることになってしまう。
だが、ほんとうにある「動機」が行為を引き起こすのだろうか。
ああしようか、こうしようか、と迷いに迷っているような行動に関しては、もちろんはっきりとした「動機」がある。Aをしたいという動機、だがBだって同じようにやりたいのだという動機、このように、いずれの動機にも軽重がつけがたい場合だけではない。Aをしなければならないことはわかっていても、Bがしたいという「動機」。だがなんにせよわたしたちはどうして自分が迷っているか、ちゃんと説明できる。
けれども、わたしたちはいつも深謀遠慮を重ねて行動しているわけではない。特に意識することもなく、駅からの帰り道をひょいといつもとちがうルートを取ってみたり、入ったことのない店に、何となく入ってみたり……そんな思いつきで行動するようなことは決してない、という人はいないのではあるまいか。
話すことにしてもそうだ。ふとした失言、別にふだんから思っているわけではないのだが、ひょいと口から出てしまった言葉、まわりの状況や雰囲気に流されてしまったり、相手に対する反感から、つい思ってもないことをいってしまったり、それまでやるつもりなどまったくなく、自分にできるとも思わなかった仕事を引き受けてしまったり、わたしたちの話すことの中には、よくわからない嘘ばかりでなく、振り返ってみれば、自分の意図に反する発言や、自分でも理由のよくわからない発言がいくつもある。
それで支障がなければ、わたしたちはそのまま忘れてしまう。何の気なく取った行動が、良い結果をもたらした場合(いつもの角で曲がらず、ひとつ先で曲がった結果、旧友とばったり出くわしたり、「やるよ」と何気なく言ってやる羽目になったことがうまくできてみんなに感謝されたり)、わたしたちは「良かったな」と思う。けれど、コンビニに特に用もないのに、何となく入ったら、たまたまばったりコンビニ強盗と鉢合わせして、ナイフで刺されてしまったら、「自分はどうしてコンビニなんかに入ってしまったのだろう」と痛みをこらえながら振り返ってしまう。つまり、「動機」や「理由」が求められるのは、悪い結果が起こったときなのである。
このように考えていくと、わたしたちの行動というのは、かならずしも「動機」がある行為を引き起こしているばかりとはいえない、ということがわかってくる。むしろ、動機が問題になってくるのは、良くない結果が起こったとき、なのである。良くない結果を前にして、わたしたちは過去を振り返る。どうしてそんなことをしてしまったのか。そうして、自分に説明しようとするのだ。
さらに言葉というのは、「何でも言える」という側面がある。現実に一キロ歩こうと思ったら、まず一歩、つぎにもう一歩と、一キロ歩き続けなければならないが、言葉でなら何万キロだって「歩く」ことができる。だから、そのぶんよけいに「ひょいと」とか「何気なく」が厄介なことになってしまう。ひょいと口にした言葉は、その場では実体を伴う必要がないから、嘘だって簡単につけてしまう。
言葉はその意味で、大変恐いものともいえるのだ。
だが、そうかといって、人は自分にまるきり無縁のことを言うことはできない。そもそも英語がしゃべれない人は、英語で話すことはできないし、ふだんから貧弱なボキャブラリしか使わない人は、抽象的かつ深淵な話をすることはできない。ほんの少し知っていることなら、知ったかぶりができても、まったく知らない世界のことは、口にすることさえできない。いくら「嘘」をついてもいい、と言ったところで、その人の現実からそれほど離れたことは決して言えないのである。
わたしたちの嘘は、どこまでいっても、自分の周囲からそれほど離れていけるものではない。それを考えると、ひょいと出てしまった嘘、不用意に言ってしまった実体とはいささかちがう言葉を、「嘘」と断罪しても良いものかどうか、ちょっと考えてしまうのである。
確かに嘘は褒められたことではない。けれども、かならずしも本当ではない、かといって、その人の現実と無縁でもない。そんなグレーの領域を含めて、わたしたちのつきあいというのはあるのではあるまいか。
昨日は、自分でもどうしてそんなことを言ったかわからないような嘘を、つい口にしてしまって、あとになって困る、という話を書いた。
あとになって困るのは、もちろんつじつまが合わなくなるから困るのだが、もうひとつ、どうしてそんなことを言ってしまったか、自分でもうまく説明ができないからだ。
たとえば旅行のおみやげといって、温泉饅頭をもらたとする。ところがあなたは甘い物が苦手で、饅頭など大嫌いだ。けれども、そう言って断るのも気まずいから、ありがたくいただいて、数日放置したあと、罪悪感と一緒にゴミの日に出してしまったとする。
数日後、温泉饅頭をくれた人と一緒にいるところに、別の人がやってきた。その人はにこやかに、「このあいだ、うちも旅行に行ったんだけど、あなた、お饅頭、ダメだったよね、かわりにしば漬けを買ってきてあげた」と話しかけてくる。おかげで温泉饅頭をくれた人も、あなたも、たいそう気まずくなってしまう……。
だが、こんなときの嘘は、気まずいけれど、嘘の理由は明白だし、相手の好意を無にすまいとした善意から出たことは伝わるから、気まずくはなっても、困ることはない。
それに対して、なりゆきとか、その場の勢いで、なんとなく口から出てしまったような嘘、別にそれまで好きでもなかったようなタレントを、ファンだ、と思わず言ってしまったり、いない叔父さんをでっちあげてしまったり、飼ってもいなかった犬を存在させてしまったり、というのは、それが嘘だと明らかになったとき、嘘自体はごくごく罪のないものであっても、その深刻さのレベルとは無関係に、ついうっかり口に出してしまった人を困らせることになる。
というのは、わたしたちは日常的に、ある行為をすることに、かならずその理由、すなわちその行為の「動機」があると考えているからだ。その行為が望ましくない結果をもたらしたとき、周囲の人はかならず「どうしてそんなことをやったのか」と行為の「動機」を求める。
それが、なんでそんな嘘を言ってしまったのか、自分でもよくわからない。相手はてっきり何か深い動機、もしくは理由があったのだろうとかんぐってくる。どうして言えないの、と問いつめられ、いよいよ困ることになってしまう。
だが、ほんとうにある「動機」が行為を引き起こすのだろうか。
ああしようか、こうしようか、と迷いに迷っているような行動に関しては、もちろんはっきりとした「動機」がある。Aをしたいという動機、だがBだって同じようにやりたいのだという動機、このように、いずれの動機にも軽重がつけがたい場合だけではない。Aをしなければならないことはわかっていても、Bがしたいという「動機」。だがなんにせよわたしたちはどうして自分が迷っているか、ちゃんと説明できる。
けれども、わたしたちはいつも深謀遠慮を重ねて行動しているわけではない。特に意識することもなく、駅からの帰り道をひょいといつもとちがうルートを取ってみたり、入ったことのない店に、何となく入ってみたり……そんな思いつきで行動するようなことは決してない、という人はいないのではあるまいか。
話すことにしてもそうだ。ふとした失言、別にふだんから思っているわけではないのだが、ひょいと口から出てしまった言葉、まわりの状況や雰囲気に流されてしまったり、相手に対する反感から、つい思ってもないことをいってしまったり、それまでやるつもりなどまったくなく、自分にできるとも思わなかった仕事を引き受けてしまったり、わたしたちの話すことの中には、よくわからない嘘ばかりでなく、振り返ってみれば、自分の意図に反する発言や、自分でも理由のよくわからない発言がいくつもある。
それで支障がなければ、わたしたちはそのまま忘れてしまう。何の気なく取った行動が、良い結果をもたらした場合(いつもの角で曲がらず、ひとつ先で曲がった結果、旧友とばったり出くわしたり、「やるよ」と何気なく言ってやる羽目になったことがうまくできてみんなに感謝されたり)、わたしたちは「良かったな」と思う。けれど、コンビニに特に用もないのに、何となく入ったら、たまたまばったりコンビニ強盗と鉢合わせして、ナイフで刺されてしまったら、「自分はどうしてコンビニなんかに入ってしまったのだろう」と痛みをこらえながら振り返ってしまう。つまり、「動機」や「理由」が求められるのは、悪い結果が起こったときなのである。
このように考えていくと、わたしたちの行動というのは、かならずしも「動機」がある行為を引き起こしているばかりとはいえない、ということがわかってくる。むしろ、動機が問題になってくるのは、良くない結果が起こったとき、なのである。良くない結果を前にして、わたしたちは過去を振り返る。どうしてそんなことをしてしまったのか。そうして、自分に説明しようとするのだ。
さらに言葉というのは、「何でも言える」という側面がある。現実に一キロ歩こうと思ったら、まず一歩、つぎにもう一歩と、一キロ歩き続けなければならないが、言葉でなら何万キロだって「歩く」ことができる。だから、そのぶんよけいに「ひょいと」とか「何気なく」が厄介なことになってしまう。ひょいと口にした言葉は、その場では実体を伴う必要がないから、嘘だって簡単につけてしまう。
言葉はその意味で、大変恐いものともいえるのだ。
だが、そうかといって、人は自分にまるきり無縁のことを言うことはできない。そもそも英語がしゃべれない人は、英語で話すことはできないし、ふだんから貧弱なボキャブラリしか使わない人は、抽象的かつ深淵な話をすることはできない。ほんの少し知っていることなら、知ったかぶりができても、まったく知らない世界のことは、口にすることさえできない。いくら「嘘」をついてもいい、と言ったところで、その人の現実からそれほど離れたことは決して言えないのである。
わたしたちの嘘は、どこまでいっても、自分の周囲からそれほど離れていけるものではない。それを考えると、ひょいと出てしまった嘘、不用意に言ってしまった実体とはいささかちがう言葉を、「嘘」と断罪しても良いものかどうか、ちょっと考えてしまうのである。
確かに嘘は褒められたことではない。けれども、かならずしも本当ではない、かといって、その人の現実と無縁でもない。そんなグレーの領域を含めて、わたしたちのつきあいというのはあるのではあるまいか。
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