陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

お世辞を言われたら

2010-09-29 23:11:44 | weblog
子供の頃、母と一緒に歩いていると、近所の人の立ち話の輪に遭遇することがよくあった。そんなとき、挨拶だけですめばいいのだが、よくよく急いでいる場合は別にすると、そんなに簡単には終わらないのである。

日常的につきあいのある、親しい人なら最悪で、もう出かけた本来の用事などどこへやら、情報交換にいそがしい。いまなら、日ごろ家にいる母が、そんなおしゃべりの機会をどれほど楽しんでいたか理解もできるのだが、子供時代のわたしにとっては、ただただ退屈なだけで、わたしがよほど不機嫌な顔をしていたのか、あるいは子供にはあまり聞かせたくないような話でもあったのか、よく、先に行ってて、とか、これ持って帰ってて、と言われたものだ。

そうは言っても、そこに留まらざるを得ない場合もあった。そんなときは、散歩に連れて行ってもらっている犬と一緒で、飼い主ならぬ母親の隣でじっと待つしかないのだが、あるときおもしろいことに気がついた。

それほど親しくない、ふだん母がネットワークを形成しているわけではないような人、母の言葉も、少し気を置いた、家では聞くこともないような声で話す相手の場合だと、エールの交換ならぬお世辞の交換が始まるのである。

向かい合うふたりの女性が、相手の髪型を褒め、着ている服を褒め、持ち物を褒め、家や庭や掃除のやり方を褒め、相手はついでに隣にいるわたしまで褒めてくれる。ところがせっかく褒めてくれたというのに、母ときたら、まだまだねんねで……、とこちらを落とすのが常で、端で聞いているとおもしろくなかった。

ともかく、見ていると、お世辞を言われると、とんでもない、わたしなんて……と謙遜してみせる人と、とんでもない、といったん否定しておいて、でもね、このあいだはこんなことを言われたの、と自慢につなげていく人、大きく分けて二通りの人がいることがわかった。

小学生だったわたしは、たいしたことを発見したような気になって、得意げに母にも報告した。ところが母は苦い顔をして、わかりもしないのにそんなことを言うんじゃないの、と叱られた。そのときは、せっかくの大発見を、そんなふうにたしなめられて、憤懣やるかたない気分でいたのだが、自分も大人になってみると、なんとなくその気持ちもわかるような気がした。

まず、人がお世辞を言うのは、おそらくは相手を喜ばせるためだ。言われた側は、お世辞だと十分わかっていても、やはりうれしい。なぜうれしいかというと、何が褒められているにせよ、そうしてそれが口先だけのものであろうと、お世辞の中にこめられている「わたしはあなたに好意を持っていますよ」というメッセージがうれしいのだろう。そこから、こんなふうにいい気分にさせてくれるなんて、この人はいい人だな、という気持ちが生まれる。

お世辞を言う人は、相手に「この人はいい人だ」と思ってもらうために、お世辞を口にするのだ。言葉を換えると、お世辞は、相手を認める自分を認めてもらうために口にする、ということになる。

そう考えると、お世辞に対して「とんでもない」と謙遜するのは、自分を下げることによって、相手を持ち上げようとすることだ。だから、謙遜している人は、お世辞に対してお世辞で返しているのだ。お世辞にお世辞で返すから、お世辞のラリーはいつまでも続く。それはそれで一種のコミュニケーションではあるのだろうが、実際にはわたしはいい人、わたしはいい人、と言い合っているのに等しい。

反面、お世辞に対してそこから自慢話に続けていくというのは、お世辞を言った相手は、自慢話まで聞かされるのだから、たまらない。一種のルール違反、この人はそういう人だから……というレッテルが張られることになるだろう。

ところで、お世辞というのは、果たしてそんなに必要なことなのだろうか。「わたしをいい人と思ってほし」がる必要が、どこまであるのだろう。

いい人と思うか、感じの悪い人と思うか、それは相手が決めること。それよりも、むしろ気持ちの良い話し合いを相手と続けられれば良い。そんなふうに考えられないものだろうか。

その上で、お世辞を言われたときは、お礼を言うのはどうだろうか。お世辞を言ってくれて、すなわちわたしをうれしい気持ちにしてくれてありがとう、とお礼を言う。だが、お礼を言うことで、そこでケリがつく。

「そのカバン、いいわね」
「どうもありがとう」

「その髪型、似合ってるよ」
「どうもありがとう」

「このあいだ、いい仕事したんだって? 聞いたよ。すごいね」
「どうもありがとう」

お世辞の交換を終わらせるのはもってこいの返しではあるまいか。
問題は、そこから先、話題が見つかるかどうかなのだが、見つからなければ、じゃ、また、と挨拶して離れる。わたしはいいやり方だと思うのだが。

うーん、こんな対応をしているから、わたしは世間が狭いのかもしれない。