陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

アーネスト・ヘミングウェイ 「キリマンジャロの雪」最終回

2010-09-11 22:49:42 | 翻訳
最終回


朝だった。だが、夜が明けてから、しばらく時間が過ぎていた。飛行機の音が聞こえてきた。ひどく小さな機影が、空に大きな弧を描いている。少年たちが駆け出し、灯油を使って火をつけた。あらかじめ、平らな地面の両端に積み上げた乾し草が用意してあったのだ。朝の風が煙をキャンプの方へ吹き寄せる。飛行機は二度旋回すると、高度を下げて滑るように降下してきた。やがて機体は水平になり、すべるように着地した。歩いてくるのは、懐かしいコンプトンだ。ズボンをはき、ツィードのジャケットに茶色いフェルトの帽子をかぶっている。

「おい、どうした」コンプトンが言った。

「脚が駄目になっちまった」彼は言った。「朝飯はどうだ?」

「ありがとう。お茶を少しもらうよ。なにしろ機がプス・モスだ、メンサヒブ(※奥様)は乗せられないんだ。ひとり分の席しかない。ま、トラックがこっちへ向かってるからな」

 ヘレンはコンプトンを向こうに引っ張っていき、話をした。コンプトンが前にも増して陽気なようすで戻ってきた。

「すぐに乗せてやる」彼は言った。「あとで奥方を連れに戻ってくるよ。アルシャで降りて給油しなきゃならん。すぐにも出立した方がいい」

「お茶はどうする?」

「ほんとはたいして飲みたいわけじゃなかったんだ」

 少年たちが寝台を持ち上げ、緑色のテントの脇を通って岩沿いに進み、平原に出ると、明々と燃えさかるのろしの横を過ぎた。草はすっかり燃え尽きて、いまは風が炎を煽っている。その先に小型飛行機が停まっていた。彼を乗せるのは大変だったが、いったん乗ってしまえば、皮の座席に深く身を横たえることができた。片脚はそのままコンプトンの座席の方まで伸ばす。コンプトンもモーターをスタートさせて乗り込んだ。彼はヘレンと少年たちに手を振り、カタカタというエンジン音が、やがてなつかしいうなり声に変わると、コンプトンはイボイノシシの穴に気をつけながら、機体の向きを変えた。ふたつのかがり火のあいだをエンジンのうなる音を立てながら、ガタガタと進み、最後にがたんとはねあがると離陸した。眼下ではみんな立ちあがって手を振っている。

丘のかたわらのキャンプも、やがてすっかり平らになり、見渡す限り平原が広がっていた。木立ちもブッシュも平面になり、いまは干上がってしまった水辺に通じる獣道の跡が見えてきたかと思うと、思いもよらなかったところに新しい水辺があるのが見えたりもした。

シマウマは小さな丸い背中だけとなり、ヌーは並べた指のように隊列を作って平原を横切っていた。ヌーの大きな頭が小さな丸となり、その丸がいくつも這いずっている。飛行機の影が彼らの上に落ちると、散り散りになって影から逃げていった。だがその姿も、いまや小さな点となり、動きも離れているせいで、ひどく緩慢だ。

平原は見渡すかぎり、灰色がかった黄色で、目の前に見えるのは、コンプトンのツィードの背中と茶色のフェルト帽だ。やがて機は最初の丘陵地帯にさしかかり、ヌーの群れが上っているのが見えた。つぎの山脈にさしかかると、緑のかたまりが盛り上がったような森や、うっそうと茂る竹林の斜面が広がっていく。そこからまた深い森が現れ、ノミで彫ったような山頂と谷間を越えると、ゆるやかな丘が続き、そこからまた平原となった。急に暑くなり、地面も紫がかった茶色となり、飛行機は熱気でガタガタと揺れた。コンプトンが振り返り、彼がどうしているか確かめた。前方に黒々とした山並みが迫ってきた。

 やがてアルーシャには向かわず、機体は左に向きを変えた。どうやらガソリンは大丈夫だと判断がついたのだろう。見下ろすと、細かく揺れ動くうす桃色の雲が、地面や空中をたなびいていた。どこからともなくやってきた、吹雪の襲来を告げる雪のようにも見えたが、すぐに南からやってきたイナゴの群れだとわかった。やがて飛行機は高度を上げ、どうやら進路を東へ取っているようだった。すると、突然あたりは暗くなったかと思うと、嵐に突入していた。激しい雨は滝さながらで、なんとか嵐を抜け出したところでコンプトンが振り向き、にやっと笑いながら前方を指さした。そこには視界一杯に、まるで世界全体がそこにあるかのように、広く、大きく、高く、陽を浴びて信じられないほど真っ白に輝く、キリマンジャロの四角い頂きがあった。ああ、自分はここに行こうとしているのだ、とわかった。

 ちょうどそのとき、闇の中でハイエナが鼻を鳴らすのをやめ、奇妙な、人間のような、ほとんど泣き声のような声を出した。女にもその声が聞こえて、胸になんともいえない不安が兆した。それでもまだ目を覚まさなかった。

夢の中で、彼女はロングアイランドの実家にいた。娘が社交界にデビューする前夜だったのだ。なぜか娘の父親もそこにいて、彼はとても無作法な振る舞いをした。そこで、ハイエナがあまりにやかましく鳴くせいで、彼女の目が覚めた。一瞬、自分がどこにいるかわからず、恐怖が襲ってきた。それから懐中電灯を取り上げ、傍らの寝台を照らした。ハリーが寝入ってから、そこに運び込んだのだ。蚊帳の下に、彼の体が浮かび上がったが、どういうわけか彼の片脚は、蚊帳の外に突き出しており、その脚が寝台のへりからぶら下がっていた。包帯が全部ずり落ち、そこはとてもではないけれど、正視できるようなものではなかった。

「モーロ!」彼女は悲鳴をあげた。「モーロ! モーロ!」

 それから彼女は呼んだ。「ハリー、ハリー!」声をいっそう張り上げる。「ハリー! おねがい、ハリー! 答えて」

 返事はなく、呼吸の音も聞こえない。

 テントの外ではハイエナがまた、さきほど彼女を目覚めさせた異様な声をあげた。だがその鳴き声も、胸の鼓動にかき消されて、彼女の耳には届かなかった。




The End




(※後日手を入れてサイトにアップします。お楽しみに)