サマセット・モームの短篇に "Lotus Eater" というものがある。邦訳ではたいがい、「ロータス・イーター」と訳されていることが多いようだ。
あるていど英語を知っている人なら、ロータスというのが日本語でいうハスだと知っているかもしれない。となるとロータスの実はレンコンか? とも思うのだが、レンコンは蓮根、英語でも lotus root である。
ロータス・イーターが食べるのは、ロータスの実で、このロータスもハスではなく想像上の植物である。辞書を見ると、ナツメの木またはニレの木がもとになって生まれた空想とあるが、これはそもそもギリシャ神話に出てくる話が元になっている。
オデュッセウスが故郷へ帰る途中、ある島に上陸する。そこはロータスの花盛り。そこに暮らすロトパゴスたちは、ロータスの実を食べては眠りこけることを繰りかえす。なんとその実は、一切を忘れてしまう効果があるのだった。
つまり、ロータス・イーターとは、レンコンを食べる人ではなくて、空想上の木、ロータスの実を食べて、この世の憂いを忘れて、至福の境地に暮らす人のことを指すのである。
モームの短篇も、まさにこの神話を下敷きにしてはいるのだが、その結末が果たして至福と言えるのかどうかは何とも言えないところだ(そのうち訳すと思うので、ここでははっきりとは書かない)。ともかく、この神話がおもしろいのは、至福の境地でいるために、過去の一切を忘れてしまうという点である。
過去は自分にこれから先、やらなければならないことをつきつける、ということなのだろうか。さらにこれからしたいことが頭にあるうちは、人は決して安逸をむさぼることはできない、ということでもあるのか。
確かにそれはそうかもしれない。仮にうまくいったことがあったとしても、その記憶だけではそんなに長い間、喜びに浸っていられるわけではない。過去があるということは、わたしたちの意識を先に振り向けるし、そこから先へ行こうと思えば、またそのための苦労が始まるし、つぎに実を結ぶまでの準備期間が必要だ。そうでなくても、手に入れたものは、自分のものになった瞬間に色あせるだろうし、今度はまた別のものがほしくなる。
うまくいったところでそのぐらいなのだから、うまくいかなければどうなるだろう。『カラマーゾフの兄弟』では、無能な父親、スネギーリョフのために体を張って世間と闘う、けなげなイリューシャは、父親に向かって、ほかの町へ越そう、ぼくたちのことをだれも知らない町へ越そう、と訴える(この場面は何度読んでも胸が痛む)。ロータスの実さえあればイリューシャが苦しむこともないのに、現実にはそんなものはないのだ。
こう考えていくと、記憶というのは、わたしたちを苦しめるものでしかないような気がしてくる。
だが、過去の自分を忘れてしまった人は、その人と同一人物であると果たして言えるのだろうか。「過去のわたし」と、いまここにいるわたしをつなぎとめるのは、自分の記憶、そうして周囲の人の記憶だけなのではあるまいか。
過去の自分と現在の自分をつなぐ記憶を欠いてしまえば、たとえその人に何の憂いもなかったとしても、その状態が幸福といえるのかどうか。
どうやら至福の状態というのは、過去を決して消すことのできないわたしたちが、もし過去さえなければ、と夢見る、その夢のなかだけにあるのかもしれない。
* * *
「パーティの終わりに」の後半とあとがき、結構書き直しました。
更新情報も書きました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html
またお時間のあるときにでも読んでみてください。
あるていど英語を知っている人なら、ロータスというのが日本語でいうハスだと知っているかもしれない。となるとロータスの実はレンコンか? とも思うのだが、レンコンは蓮根、英語でも lotus root である。
ロータス・イーターが食べるのは、ロータスの実で、このロータスもハスではなく想像上の植物である。辞書を見ると、ナツメの木またはニレの木がもとになって生まれた空想とあるが、これはそもそもギリシャ神話に出てくる話が元になっている。
オデュッセウスが故郷へ帰る途中、ある島に上陸する。そこはロータスの花盛り。そこに暮らすロトパゴスたちは、ロータスの実を食べては眠りこけることを繰りかえす。なんとその実は、一切を忘れてしまう効果があるのだった。
つまり、ロータス・イーターとは、レンコンを食べる人ではなくて、空想上の木、ロータスの実を食べて、この世の憂いを忘れて、至福の境地に暮らす人のことを指すのである。
モームの短篇も、まさにこの神話を下敷きにしてはいるのだが、その結末が果たして至福と言えるのかどうかは何とも言えないところだ(そのうち訳すと思うので、ここでははっきりとは書かない)。ともかく、この神話がおもしろいのは、至福の境地でいるために、過去の一切を忘れてしまうという点である。
過去は自分にこれから先、やらなければならないことをつきつける、ということなのだろうか。さらにこれからしたいことが頭にあるうちは、人は決して安逸をむさぼることはできない、ということでもあるのか。
確かにそれはそうかもしれない。仮にうまくいったことがあったとしても、その記憶だけではそんなに長い間、喜びに浸っていられるわけではない。過去があるということは、わたしたちの意識を先に振り向けるし、そこから先へ行こうと思えば、またそのための苦労が始まるし、つぎに実を結ぶまでの準備期間が必要だ。そうでなくても、手に入れたものは、自分のものになった瞬間に色あせるだろうし、今度はまた別のものがほしくなる。
うまくいったところでそのぐらいなのだから、うまくいかなければどうなるだろう。『カラマーゾフの兄弟』では、無能な父親、スネギーリョフのために体を張って世間と闘う、けなげなイリューシャは、父親に向かって、ほかの町へ越そう、ぼくたちのことをだれも知らない町へ越そう、と訴える(この場面は何度読んでも胸が痛む)。ロータスの実さえあればイリューシャが苦しむこともないのに、現実にはそんなものはないのだ。
こう考えていくと、記憶というのは、わたしたちを苦しめるものでしかないような気がしてくる。
だが、過去の自分を忘れてしまった人は、その人と同一人物であると果たして言えるのだろうか。「過去のわたし」と、いまここにいるわたしをつなぎとめるのは、自分の記憶、そうして周囲の人の記憶だけなのではあるまいか。
過去の自分と現在の自分をつなぐ記憶を欠いてしまえば、たとえその人に何の憂いもなかったとしても、その状態が幸福といえるのかどうか。
どうやら至福の状態というのは、過去を決して消すことのできないわたしたちが、もし過去さえなければ、と夢見る、その夢のなかだけにあるのかもしれない。
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「パーティの終わりに」の後半とあとがき、結構書き直しました。
更新情報も書きました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html
またお時間のあるときにでも読んでみてください。