陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

自分だけの場所

2010-02-10 23:21:37 | weblog
たまに、公職にある人が、軽犯罪で逮捕されたりして、周囲が驚く、というようなことがある。何でまたあの人がそんなことを、とみんなはあっけにとられるのだが、犯した犯罪が軽微である割には、その人が被るダメージが大きくて、結局一番の被害者は、その人自身(と、その家族)となってしまうようなことも少なくない。

新聞やニュースでそんなことを見聞きするたびに、辞書に載っていた「何が彼(彼女)をそうさせたのか」という文例で覚えた "What possessed you to do?" という文章を思い出したりしたものだ。

その動機を問われて、職責からくるプレッシャーが上げられることも多いが、たいていはあまり説得力を持たない。結局はその人の資質に帰せられることが多いのではあるまいか。

だが、やはり「公職」であるとか、人の上に立つとか、つねに人の視線を浴びていることとかに原因があるのではないか、という気がしてきた。「プレッシャー」というより、プライバシーの問題ではないか、と思うのである。

カニグズバーグは児童文学の作家だが、かなり早い内から大人の本を読み始めたわたしが読むようになったのは、逆に、大人になってからだ。子供時代に読んでいたら、もっといろんなことをうまく整理して眺めることができたかもしれない、と思ったものだ。

そんなカニグズバーグの作品の中に、『ベーグル・チームの作戦』というものがある。ひょんなことからリトルリーグの監督に就任したお母さんと、息子の一シーズンが描かれる。ただ、わたしがおもしろいと思ったのは、こんなエピソードだ。

十二歳の主人公のマークは、自分のベッドのスプリングとマットレスの間にエロ本を隠している。それを友だちに得意げに見せてやるのだが、なんと友だちは「もう見た」と言うのだ。あろうことかそこの家では、息子のしていることをなんでも知っていたい母親が、その「プレイガール」の定期購読をしてやっていて、隠さないことになっているのだという。

マークは、自分の母親がそんなものを見ているなんて、耐えられない、と思う。そうして、ベッドのスプリングとマットレスの間に「自分だけの場所」があることが、このうえなくうれしく思えるのだ。

これを読んで、わたしは自分の十代のときのことを思い出した。ノートはもちろんのこと、机の中も、手紙も、友だちとの交換日記までも、うちの母親は欠かさず見ていた。マークの友だちの母親と同じ、子供のしていることを何でも知っていたかったのだ。学校の様子や誰とつきあっているか、ことごとくを話さなければ、「親に隠し事をする気か」と叱られたものだった。

だからわたしは「あることないこと」というより、「ないことないこと」を記した日記を母親に見せるためにつけ、せっせと架空の話をした。当時も、しばらく後も、嘘ばかりついている自分に一方でひどい罪悪感を覚えてはいたのだが、さらに時が過ぎて、そうすることで、「自分のプライバシー」を創りだそうとしていたのだと気がついた。そう考えると、ずいぶん罪悪感は薄らいだのだが、カニグズバーグを読んでいれば、そもそもその罪悪感を感じなくてすんでいたように思う。

ともかく、人には誰も「自分だけの場所」が必要だ。マークにとって、エロ本を読むのではなく、誰にもふれられない秘密を持つことが必要だった。秘密が秘密であるために「エロ本」が選ばれたのだ。

おそらく万引きだとか、痴漢だとかも、つねに人目にさらされている人、プライバシーが認められない人にとっての「秘密」「自分の部屋」だったのではあるまいか。

配偶者や恋人の携帯を盗み見するかどうか、というのもよく話題になる話だが、おそらく盗み見る携帯には、かなりな高確率で、よからぬことがあるはずだ。というのも、盗み見る人は、それが見つかるまで見続けるからだし、もうひとつ、盗み見るような人は、相手のやっていることをすべて知りたいような人だからだ。おそらくその人が築く関係は、「自分だけの場所」を相手に許さないものだろう。そのような関係の中で、「自分だけの場所」「秘密」を創りだす、一番手っ取り早い方法が、ラブ・アフェアーである、というだけの話なのではあるまいか。

人目にさらされる割合が高くなればなるほど、そのプレッシャーは高まるだろう。そんな人が、「自分だけの場所」を持てなかったら。あるいは、聖人君子として、マットレスの間にエロ本を隠すような自分を許せなかったとしたら。別の秘密を創りだしてしまうことになるのかもしれない。自分を被害者にするしかないような。