陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

グレアム・グリーン「パーティの終わり」最終回

2010-02-09 23:10:18 | 翻訳
最終回


 そのとき、「行くよ」と叫ぶ声がした。大声に不意をつかれ、弟の自制心も木っ端みじんにうち砕かれたかと思って、ピーター・モートンは恐怖で跳び上がった。だが、それは彼自身の恐怖感とはちがう。同じ恐怖といっても、弟が心底おののいているのに対し、ピーターのそれは、相手を思いやるがゆえの感情に過ぎなかったから、理性が恐怖に曇ることはなかった。

「もしぼくがフランシスだったらどこに隠れるだろう」
フランシスでこそなかったが、少なくともピーターは彼の鏡だったので、即座に答えがわかった。「書斎のドアの左側にある樫の本棚と革のソファの間だ」
ふたごの間では、いわゆるテレパシーなどという用語は必要なかった。母胎の中でずっと一緒、離ればなれになることも不可能な状態で過ごしていたのだから。

 ピーター・モートンは忍び足でフランシスが隠れている場所に歩いていった。二度三度と床板が鳴る。暗闇の中をこそこそと探し回っている鬼たちに出くわしたくなかったので、彼は腰をかがめて靴ひもを解いた。靴ひもの先端が床に当たって金属的な音を立て、耳ざとい誰かの足音が近づいてきた。だが、そのときにはピーターはもう靴下だけになっていたので、こんなときでさえなければ、鬼をひそかに笑っているところだったかもしれない。脱ぎ捨てた靴に誰かがつまずき、心臓がどきんとしたが、彼は物音ひとつ立てなかった。ピーター・モートンが歩くたび、床は音を吸い込んでいく。

 靴下はだしで彼は静かに、目指す場所に迷わず進んでいった。壁がすぐそばまで迫っていることを、本能的に感じた。手を延ばすと、指先が弟の顔にふれた。

 フランシスは悲鳴をあげはしなかったが、自分の心臓が跳ね上がったので、ピーターにもフランシスの恐怖の一部が伝わってきた。「大丈夫」彼はそうささやくと、うずくまっている体を手探りで降りていき、固く握っているこぶしをとらえた。「ぼくだけだ。一緒にいてやるからな」

もう一方の手もぎゅっと握ってやり、自分が口にした言葉がささやき声の滝となって落ちていくのに耳を澄ませた。手がピーターの頭のすぐ横の本棚に伸びてきて、たとえ自分がここにいても、フランシスの恐怖はどうにもならないことを悟った。もしかしたら、少しはましになって、ちょっとぐらいはがまんしやすくなったかもしれないけど――そうだったらいいんだけど、と彼は思った――依然としてそれはあった。だがそれは、フランシスの恐怖であって、ピーター自身が味わっているのではなかった。彼にとって、闇は単に光のない状態であるのに過ぎなかった。伸びてくる手も、よく知っている子の手だった。見つかるのをしんぼう強く待っていさえすればよかったのだ。

 彼はもう何も言わなかった。フランシスと彼は、体と体をふれあわせることで、完璧に理解しあっていたからだ。口でしゃべるよりもすばやく、つないだ手と手を通して、言葉を介在させない思考そのものが伝わる。彼には弟の感情の流れをすべて感じ取ることができた。突然ふれられたせいで、恐怖のあまりに息も停まるほどの衝撃を受けたことも、いまでも恐怖が心臓の鼓動のように規則正しく脈動していることも。ピーター・モートンは懸命に念じた。「ぼくがここにいる。怖がることなんてない。もうすぐ明かりがつくんだ。人が動く音なんて怖くない。ただのジョイス、ただのメイベル・ウォーレンなんだよ」

大丈夫だ、という思いを爆弾のように投下し続けたが、恐怖がいぜんとして続いていることははっきりとわかった。「みんなひそひそ声で話してる。もうぼくらを探すのに飽きてきたんだ。じき、明かりがつく。ぼくらは勝ったんだよ。だからもう怖くないんだ。あれは階段にいる誰かだよ。たぶん、ミセス・ヘン=ファルコンじゃないかな。聞いてごらんよ、みんな明かりを手探りしてる」

足音がカーペットを進み、いくつもの手が壁をかすめた。カーテンがさっと開き、ドアの取っ手がカチッと鳴る。棚の戸が開いた。彼らが隠れている頭上で本が一冊倒れた。
「ただのジョイスだよ。ただのメイベル・ウォーレンさ。ただのミセス・ヘン=ファルコンだ」安心させようという気持をだんだん強くしながら送っているうちに、シャンデリアがパッとついた。まるでサクラやリンゴの花が一気に開いたかのように。

 子供たちの上げる歓声が明るい部屋に響く。
「ピーターはどこ?」「二階はもう探した?」「フランシスはどこだろう」
子供たちの声は、ミセス・ヘン=ファルコンの上げた悲鳴の前に立ち消えになった。

だが、フランシス・モートンが壁に身を預け、兄が手をふれたときの体勢のまま動かなくなっているのに気がついたのは、彼女が最初ではなかった。ピーターは、固くつないだ手をにぎったまま、涙ひとつ流すではなく、深い悲しみを感じながらも、どこか腑に落ちない気持でいた。弟が死んだからというだけではない。彼の頭はまだ、この矛盾を説明できるほど大人になっていなかったので、ぼんやりとした自己憐憫を感じながら不思議がるだけだった。どうして弟の恐怖の鼓動はいまも続いているのだろう。フランシスはいま、大人たちからいつも聞かされた、あの場所へ行ってしまったのではないのだろうか。怖れも、……闇もない場所へ行ったのでは。


The End



(※後日手を入れてサイトにアップします)