陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

グレアム・グリーン「パーティの終わり」その4.

2010-02-07 22:43:40 | 翻訳
その4.

「かわいいわねえ」ミセス・ヘン=ファルコンは上の空でそう言うと、手を振って、ヒヨコか何かのように子供たちを追い立て、自分が準備したお楽しみのプログラムを開始した。卵を載せたスプーン競争、二人三脚、リンゴ突き刺し競争、どのゲームもフランシスはみじめな思いをしただけだ。ゲームの合間の何もしなくて良いときだけ、メイベル・ウォーレンのバカにしたような視線からできるだけ離れた部屋の隅に立って、刻々と迫る暗闇の恐怖から逃れるすべを考えることができた。

お茶の時間が終わるまでは、何も恐ろしいことなどないことはわかっていた。そうしてコリン・ヘン=ファルコンのバースデーケーキに立てられた、十本のロウソクが投げかける黄色い光の輪の中にすわっているときに初めて、自分が怖れていることがまもなく始まることをはっきりと意識した。ジョイスのかん高い声がテーブルの向こうから聞こえてきた。「お茶が終わったら暗くして、かくれんぼをやるのね」

「それはやめようよ」ピーターがフランシスの窮地に陥った顔にじっと目をやったまま、そう言った。「わざわざそんなことやらなくても、毎年やってるんだからいいじゃないか」

「だけどプログラムには書いてあるもの」メイベル・ウォーレンが大声で言い返した。「わたし、自分で見たもの。ヘン=ファルコンさんの後ろから、ちゃんと見たんだから。五時にお茶、五時四十五分から六時半まで、明かりを消してかくれんぼ、って。プログラムに全部書いてあったもん」

 ピーターは言い返さなかった。ミセス・ヘン=ファルコンのプログラムに書いてあるのなら、自分が何を言おうが、それをひっくり返すことなんてできやしない。彼はケーキをもう一切れねだって、紅茶をちびちびとすすった。かくれんぼを十五分でも遅らせることができれば、少なくともフランシスに数分でも猶予を与えることができれば、うまい手を考えられるかもしれない。だが、それさえもかなわなかった。子供たちはすでに三々五々、テーブルを離れていたからだった。これで三つ目の策も失敗に終わった。また大きな鳥が羽を広げ、弟の顔に影を落とすのが見えたような気がした。だが、胸の中で、馬鹿なことを考えるんじゃない、と自分をしかりつけ、大人たちが繰りかえす「暗いところなんて何も怖いことなんてないんだよ」という言葉を改めて自分に言いきかせながら、ケーキを食べ終えた。テーブルに最後まで残っていたふたごが一緒に玄関ホールへ行くと、子供たちを集めていたミセス・ヘン=ファルコンのしびれを切らしたような目が、ふたりを迎えた。

「さあ、明かりを消して、かくれんぼをしましょう」

 ピーターが弟を見やると、口を固く引き結んでいる。彼にはフランシスが、パーティの初めからこの瞬間を怖れていたことも、なんとか勇気をだしてそれに立ちむかおうとしていたことも、いまやその努力を放棄してしまったことも理解できた。いまは、どうかかくれんぼから逃れられる狡知を授けてください、と祈っているところにちがいない。ほかの子供たちはみんな興奮して歓声を上げているというのに。「わあ、やろうよ」「二組に分かれなきゃ」「家の中で入っちゃいけない部屋はどこかありますか」「安全地帯は作るんですか」

「ぼく……」フランシス・モートンは大きな胸のあたりに目をすえて、ミセス・ヘン=ファルコンの方へ近寄りながら言った。「遊んでもしょうがないと思うんです。うちのナニーがもうすぐ迎えにくるから」

「あら、だけど乳母さんなら待ってくれますよ、フランシス」ミセス・ヘン=ファルコンは、手を叩いて子供たちを呼び戻そうとしながら言った。子供たちは早くも、上の階へ行こうと、蜘蛛の子を散らすように広い階段を上がっていこうとしている。「あなたのお母さんも、気になんてなさらないわよ」

 フランシスの狡知もこれが限界だった。よくよく考え抜いたあげくの言い訳が通じないはずがないと思っていたのだ。いまとなっては彼に言えるのは「ぼく、かくれんぼはしない方がいいと思います」ということだけだったのだが、そのしゃべり方がまた、子供たちがきらいぬいているものだった。ほらあの調子だ、まったくどれだけ偉そうなんだ?だが、フランシスはそんなに怖れていても、無表情のまま、じっとそこに立って待っていた。

兄には弟の恐怖がわかった、というより、恐怖が落とす影が彼の脳に及んできたのだ。その瞬間、明かりが消えてたったひとり取り残された闇の中に、忍びやかな、誰のものとも知れない足音が、四方八方から押し寄せてくるような気がして、ピーターは恐怖のあまり、叫び出しそうになった。やがて彼は、この恐怖は自分自身のものではなく、弟のものであることを思い出した。

彼は衝動的にミセス・ヘン=ファルコンに頼みこんだ。「お願いです。フランシスにかくれんぼをやらせないでください。暗い中だとフランシスはどきどきしちゃうんです」ピーターはまちがった言葉を使ってしまった。子供が六人、歌い始めたのである。「弱虫、毛虫、はさんで捨てろ」うつろな、ぱっと開いたひまわりのような顔がいくつも、フランシス・モートンに向かって、拷問のようにさいなんだ。

 兄の方には目を向けないで、フランシスは言った。「もちろんぼくも一緒にやります。怖くなんかないんだ。だけどちょっと思ったのは……」

だが、自分を苦しめた子供たちは、もはや彼のことなど頭になかった。子供たちはミセス・ヘン=ファルコンを取り囲んで、甲高い声であれこれ聞いたり、ああした方がいい、こうした方がいい、と提案したりに余念がない。
「ええ、家の中ならどこに隠れてもいいのよ。明かりは全部消します。そうねえ、棚の中に隠れてもいいわ。できるだけじっとしてるんですよ。安全地帯は作りません」

 ピーターはそこから離れて、自分が弟を何とか助けようとしてしでかしたぶざまな行動に恥じ入ったまま、たったひとりで立っていた。彼の脳の隅に、フランシスの憤慨、口出ししたことへの憤りが忍び込んでくるのを感じる。子供たちが数人、階段を駆け上がって行ったかと思うと、上の階の明かりがを消えた。コウモリが羽を広げて下りてきたかのように、闇が玄関ホールにたれこめ、そのまますっぽりと覆った。使用人たちがホールの壁際の明かりを消していったので、子供たちは中央のシャンデリアの明かりの下に集まった。コウモリたちもまた、翼を張り出してしてあたりを丸く取り囲み、明かりが消えるのを待っている。

「あんたとフランシスは隠れる方よ」背の高い女の子が声をかけた瞬間、明かりが消え、まるで冷たいすきま風が吹いていくようなスーッ、スーッという忍び足の音が、四隅に散っていき、足下の絨毯がそれに合わせてかすかに震えた。

「フランシスはどこにいる?」彼は考えた。「一緒にいれば、いろんな音がしたって、少しは怖くなくなるだろう」“いろんな音”というのは、静寂を覆う膜のようなものだった。ゆるい羽目板がキーキー鳴る音、戸棚を注意深く閉じる音、磨いた柱に指先をすうっとすべらす音。

 ピーターは誰もいなくなった暗い床の真ん中に立ちつくし、耳をそばだてるのではなく、弟がいる場所の気配が脳に入ってくるのを待った。だがフランシスは両手で耳を押さえ、目を意味もなく固く閉じて、うずくまっていた。麻痺した頭は何も受けつけず、周囲の緊張感だけが、暗闇を縫って伝わってくる。



(この項つづく)