陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サキ「こよみ」(中編)

2009-02-12 22:21:09 | 翻訳
(中編)

 暦の売れ行きは上々、たいていの予言はおおむね現実のものとなり、暦の制作にあたった予言者の力は18ペンスに見合うものであることを示した。ディブカスター家では娘がひとり病院看護婦になることを決意し、もうひとりはピアノを断念することにした。いずれにせよ幸福な選択と考えられないこともない。使用人に関するトラブル及びゴルフコースでの理不尽な不運も、一年のあいだには家庭やゴルフクラブで正しく立証された。

「わたしが料理人を七ヶ月のあいだに二度も替えることになるなんて、どうしてあの人にわかったのかしら」ミセス・ダフは言ったが、“この地区のきわめて優秀な奥様”文言は、まさに自分に該当すると苦もなく理解したのである。

「“この地区の家庭菜園で、目を見張るばかりの立派な野菜が収穫されるでしょう”という予言も、ちゃんとその通りになったわね」とミセス・オープンショーが言った。「暦にはね、“この地区で、美しい花を栽培していると賞賛の的だった庭園で、今年はすばらしい野菜が収穫されるでしょう”ってあったでしょ。うちの庭に咲く花は、確かにみんなが褒めてくれるんだけど、昨日ヘンリーが掘ったニンジンときたら、品評会に出しても並ぶ物がないほどの出来だったのよ」

「あら、でもあの予言が言っているのはうちの庭のことだと思うんだけど」とミセス・ダフ。「毎年花は見事だと言われてきて、今年はそりゃすばらしい、見たこともないようなグローリー・オブ・サウス種のパースニップが取れたの。そのサイズを測って、フィリスが写真も撮ったのよ。あの暦、来年も出るんだったら、わたし、絶対に買うわ」

「わたしも予約したのよ」ミセス・オープンショーが言った。「うちの庭のことをちゃんと予言できるんだもの、これはもう買わなくちゃね」

 その暦は目のつけどころがいいとか、よく当たる予言をうまく集めているとか、おおむね好評だったが、なかには予言したようなことは、どの年でも多少のちがいがあるにせよ、起こりそうなことばかりじゃないか、とくさす向きもあった。

「ひとつひとつの出来事についてはっきりしたことを書くような危険は冒せないのよね」とヴェラは12月の終わりのある日、クローヴィスに言った。「だけど、ジョスリン・ヴァナーのことだけはピンチになっちゃって。十一月から十二月にかけて、ジョスリンにとって狩りに出かけた先は安全な場所ではない、とほのめかしたの。彼女、いつだって馬に飛び越えさせ損なって落っこちたり、急に駆け出されたり、そんなことが多いから、いつだって危ないのよ。それがジョスリンときたら、わたしの予言を警告と受けとって、歩いて集合場所に行くのよ。そんなことしてたら、そんな大きな事故は絶対に起こるわけないじゃないの」

「それじゃ狩りのシーズンもぶちこわしだな」とクローヴィスが言った。

「ぶちこわしなのはわたしの暦の評判よ。うまくいかないってはっきりしてるのはそれだけなの。彼女、落馬ぐらいはまちがいなくするだろうから、それを拡大解釈すれば重大事故くらいにはなると思ったのに」

「ぼくが馬でジョスリンに襲いかかるわけにはいかないだろうし、猟犬をけしかけてキツネだと思わせてズタズタに引き裂かせることもできないだろうし」クローヴィスが言った。「もしそんなことができたら、君はぼくに永遠の愛を捧げてくれるんだろうけど、そんなことをしたらあとあと大変だろうしね。それにぼくはこれから先、狩りの仲間に入れてもらえなくなるだろう。それはちょっと困るからなあ」

「あなたのお母さんが言ってらした通りね。あなたってつくづく自分のことしか考えてない人なんだわ」

(この項つづく)



サキ「こよみ」(前編)

2009-02-11 21:52:30 | 翻訳
さらにクローヴィスものの"The Almanac"(「暦」)をお届けします。
今回の主役はヴェラです。
原文はhttp://haytom.us/showarticle.php?id=133で読むことができます。

* * *
"The Almanac"
「暦」


「こんなことを考えたことはない?」ヴェラ・ダーモットがクローヴィスに聞いた。「地元の暦を作ったら、悪くない小遣い稼ぎができるんじゃないかしら。未来を予言するような言葉を入れておくのよ、世間で50万部も売れてる暦みたいに」

「小遣い稼ぎはきっとできるだろうけど」とクローヴィスは言った。「悪くない、ってのはどうかな。予言者というのは故郷では迫害されるものなんだよ。君だって自分が予言した人たちと面つきあわせて毎日を送ることを考えたら、そんな仕事、ごめんなんじゃないか。もしヨーロッパ各地で王冠を頭にいただくようなお歴々に向かって、何か悲劇的なことが起こると予言しておいて、一日おきに昼食会やお茶会で連中と顔を合わせせなきゃならないとしたら、その仕事も悪くないなんてことは言ってられないんじゃないかな。特に年の終わりになって、予言した悲劇の期限がだんだん迫ってきたりしたら、目も当てられない」

「わたしは新しい年になる直前に売り出すことにする」ヴェラは、起こりうる不都合な可能性を指摘されても、一切耳を貸さずに言い切った。「一部18ペンス。友だちにタイプしてもらえば、一部売るたびにそっくりそのまま儲けになる。いくつ予言を外すだろう、って野次馬気分で、みんな買ってくれるにちがいないわ」

「のちのち困ったことになるんじゃない?」クローヴィスが聞いた。「予言がつぎつぎ『立証不能』ってことになりでもしたら」

「大外れってことがないような予言だけを用意するのよ。最初の予言はこれ。“教区司祭は『コロサイ人への手紙』からの感動的な説教で新年を始めるでしょう”って。あの人、わたしの記憶にある限り、毎年それをやってるもの。おまけにあのお年でしょ、変化なんてものは好まないはず。それから一月の項にはこう書いて大丈夫でしょうね。“この地区の名家のうち、深刻な財政上の問題に直面するお宅が一軒以上はあるでしょうが、それが現実の危機にまで至ることはないでしょう。”ってね。ここらじゃ毎年この時期はあっちの家でもこっちの家でも支出超過で大変なことになってて、大幅な財政緊縮が必要になるのよね。それから四月か五月あたりには、ディブカスター家のお嬢さんのひとりが、生涯で一番幸福な選択をするでしょう、って予言するの。八人も娘がいるんだから、そのころにはひとりぐらい結婚するとか、舞台に立つとか、大衆小説を書くかしてもいいはずよ」

「だけどあの一族からは人類史をさかのぼってみても、そんなことをした人間は、ただのひとりも出てきてないぞ」クローヴィスが反論した。

「いちかばちかやってみなきゃいけない場合だってあるわ。だけど安全策をとるなら、二月から十一月のあいだに使用人の問題を抱えることになる、っていうのはどう? “この地区のきわめて優秀な奥様、あるいは家政を預かる方のうち、使用人の問題に頭を悩ませる方がいらっしゃるでしょうが、さしあたっては乗り切ることができるでしょう”って」

「もうひとつ安全な予想がある」クローヴィスが提案した。「ゴルフ・クラブで競技会が何度かあってメダルが授与されるっていうのはどうだろう。“この地区でトップクラスのゴルフ・プレイヤーはひとかたならぬ不運に見舞われ、獲得するはずのメダルを逃してしまうことになるでしょう。”少なくともこの予言が当たった、と思うやつは一ダースは下らないだろうな」

 ヴェラはそのアドバイスを書きとめた。

「先刷りを半額で譲ってあげるわ」ヴェラが言った。「だけどお宅のお母様には、定価で買ってもらってね」

「おふくろには二部買わせるよ。一冊はレディ・アデラにあげればいい。あの人は借りられるものなら何だって借りて済まそうとするんだからな」

(この項つづく)


サキ「ショック作戦」(後編)

2009-02-09 22:59:02 | 翻訳
(後編)

これまでにわめいてきたのとは段違いの騒々しさで階段をかけあがると、息子の部屋のドアを気でもちがったように叩いた。

「あんたって子はまったくひどい子。ダグマーに何をしたの」

「今度はダグマーか」バーティはきつい調子で切り返した。「つぎはジェラルディンがどうとかって言うんだろうな」

「こんなことになるなんて。あれほど骨を折っておまえを夜に出歩かせないように育ててきたのに」ミセス・ヘザントは泣き出した。「どんなに隠そうとしたってムダだよ。クロティルダの手紙に何もかも書いてあるんだから」

「その女が誰かも書いてあるのかい」バーティはたずねた。「そいつの話はさんざん聞かされたから、その女の私生活がちょっとばかり知りたくなてきたよ。真剣な話、母さんがこんな調子で続けるんだったら、ぼくは医者を呼んで来なきゃ。これまでだって何もしてないのに説教をされたこともずいぶんあるけど、ハーレムをでっちあげてそいつを話のなかに引っ張ってくるなんてことは、これまでにはなかったからな」

「この手紙がでっちあげだとでもいうの」ミセス・ヘザントは金切り声を上げた。「宝石はどうなの。おまけにダグマーだの、自殺説だのと」

 こうした疑問の数々に対する回答が、寝室のドアから出てくることはなかったが、その晩、最後に郵便受けに投げ込まれた三通目のバーティ宛ての手紙の内容が、ミセス・ヘザントの蒙を開いた。息子の方はすでに思いあたっていたのだが。
 親愛なるバーティ

 ぼくが「クロティルダ」を名乗った例のいたずらの手紙だが、君が気を揉んだりしていなければいいのだが。この前、君のところの召使いか誰かが君の手紙を開けてるって言ってただろう? だからぼくはそいつに何か読んでわくわくするような話を書いてやったのさ。そのショックはきっといい結果をもたらすにちがいないと思ってね。
君の友 クローヴィス・サングレイル

 ミセス・ヘザントはクローヴィスを少しばかり知ってはいたが、どちらかというと怖れる気持ちがあった。このいたずらの行間を読むことはむずかしいことではない。だから今度ばかりはたかぶる気持ちを抑えて、もういちどバーティのドアの前に立った。

「ミスター・サングレイルから手紙が来たわよ。全部ばかげたいたずらだったんですって。あの手紙は全部、その方が書いたんだそうよ。あら、どこへ行くの?」

 ドアを開けたバーティは、帽子をかぶって上着を着ていた。

「医者を呼びに行って来る。母さんを看てもらうんだ。もちろんいたずらにはちがいないけど、殺人だの自殺だの宝石だの、そんなたわごとを本気にする人間なんて、まともだったらいるはずがないもの。この一時間か二時間、家がひっくりかえるくらい騒いだのはだれだっけ」

「だってあの手紙、どう考えればいいっていうの」ミセス・ヘザントは情けない声を出した。

「どう考えればいいかなんて簡単なことじゃないか」とバーティは言った、「人の私信をのぞいて大騒ぎしたがるなんて、自分が悪いんじゃないの。ともかくぼくは医者を呼んでくるよ」

 これぞバーティにとって願ってもない好機であり、バーティもそれはよくわかっていた。母親は、この話が広まりでもしたら、自分がどれほど馬鹿に見えるか気がついた。そこで喜んで口止め料を払うことにしたのだ。

「わたしはもう絶対にあなたの手紙なんて開けたりしませんよ」と約束した。

 かくしてクローヴィスはバーティ・ヘザントというこの上なく献身的な奴隷を手に入れたのだった。



The End




サキ「ショック作戦」(中編)

2009-02-08 22:30:10 | 翻訳
(中編)

 ふたりが室内プールで話をしてから一日か二日経ったある日のこと、バーティ・ヘザント宛ての手紙がヘザント家の郵便受けにすべりこみ、そののち、バーティの母親の手に落ちた。ミセス・ヘザントは、他人の問題に汲めどもつきぬ興味を抱いているような、例の頭の空っぽな連中のひとりだった。プライヴェートなものであればあるほど、好奇心はいよいよ募ってくる。だからどちらにせよこの手紙も開封される憂き目であったろうが、表に「親展」と記されている上に、繊細だが深い芳香がただよってくる。だから、開封するのは当然のことだったが、ふだんとはちがって一目散に飛びついたのだった。その収穫たるや、期待をはるかに上回るものだった。

「カリシモ(※イタリア語で「親愛なる」の意)・バーティ」という書き出しでそれは始まっていた。
あなたにそれをやる度胸があるかしらね、なにしろ、これまた度胸のいるヤマだから。宝石のことを忘れないで。確かにそっちはたいしたことじゃないけど、わたしにとってはどうでもいいことじゃない。
永遠にあなたのもの クロティルダ

 わたしの存在はお母さんには知られないで。聞かれたら、そんな女、聞いたこともない、って言っておいてね。
 何年ものあいだ、ミセス・ヘザントはバーティの手紙をせっせと調べて、ふしだらなことをやっている可能性はないか、若気の過ちはないかとその痕跡をさがしていたのだ。これまで使命感に燃えて探索してきたが、それも疑いがきっかけだった。そうしてその疑いが、今回の大漁で裏書きされたのである。“クロティルダ”などというきわどい名前の女がバーティに向かって「永遠にあなたのもの」なんて不埒なことを書いてるだけでまったく唖然としてしまうのに、そのうえ宝石がどうのこうのとほのめかしているのに肝をつぶした。ミセス・ヘザントは小説や戯曲で、胸がドキドキするような派手な役割を宝石が果たすのを、いくつも思い出すことができた。それがここ、このわたしの家のなかで、わたしの目の前で、うちの息子が、宝石が興味深くはあるけれど「たいしたことじゃない」ような陰謀に加担してるなんて。バーティが帰ってくるまで一時間ほどあったが、姉たちは家にいたので、さっそくこの醜聞にまみれた話をぶちまけた。

「バーティったら危ないことに巻き込まれてるのよ」ミセス・ヘザントはわめき散らした。「クロティルダなんて名前の女」と、まるで最悪のニュースは最初に知っておいた方がいい、と言わんばかりにつけくわえる。若い娘たちに人生の暗黒面を隠していては、良い面よりも害をなすことの方が多いことはままあるのだから。

 バーティが戻ってくるまで、母親はバーティの秘密の悪行についてありそうなこと、ありそうもないことまで洗いざらい並べたが、姉たちは、バーティは悪いんじゃなくて情けないだけ、という感想しか述べようとしない。

「クロティルダって誰なのよ?」バーティが玄関に足を踏み入れるやいなや、その質問が浴びせられた。そんな人は知らないよ、というと、馬鹿にしたような笑い声が返ってきた。

「ほんと、言いつけをよく守るのね!」ミセス・ヘザントはわめいた。だが、当てこすりはすぐに激しい怒りに取って代わった。というのも、バーティは母親にばれたにもかかわらず、しらを切り通すつもりらしいのだ。

「何もかも正直に言わないかぎり、晩ご飯はなしよ」母親は頭から湯気をたてて怒った。

 バーティの返答は、食料貯蔵庫から即席晩餐会が開けるような食料をいそいでかき集め、自分の寝室に閉じこもるというものだった。母親は何度となく鍵のかかったドアの前に行っては、あたかも質問を繰りかえしていれば、最終的には答えが返ってくるとでもいうように、大声で尋問するのをやめない。バーティはそんな思惑に応えるようなそぶりは毛頭見せなかったのだが。一方だけが無駄に話し続けるという実りのないやりとりが一時間ほどが過ぎたところで、バーティ宛てに「親展」と書いた手紙がもう一通、郵便受けに舞い込んだ。ミセス・ヘザントは、ネズミを取り逃がしたネコが、思いがけず二匹目のネズミを与えられて夢中で飛びかかるように、その手紙に飛びついた。もし彼女が、さらにくわしいことが明らかになるだろうと思っていたとしたら、その期待は裏切られることはなかった。

「ほんとにやっちゃったのね!」とその手紙はいきなり始まっていた。
 かわいそうなダグマー。やられちゃったとなると、彼女もちょっとかわいそうね。だけどあなた、すごくうまくやったわよ、この悪党。召使いたちはみんな自殺だと思ってる。だから面倒なことは起こらないはず。検屍が終わるまで、宝石には手をふれないでね。
クロティルダ


(この項つづく)



サキ「ショック作戦」(前編)

2009-02-07 23:16:08 | 翻訳
サキの短篇です。
今回は昨日までの「メスのオオカミ」にも出てきたクローヴィスが引き続き登場です。
前編後編の二回でお届けします。

原文はhttp://haytom.us/showarticle.php?id=108で読むことができます。

* * *
Shock Tactics
「ショック作戦」

 晩春の午後、エラ・マッカーシーはケンジントン公園の緑色のペンキが塗ってある椅子に腰かけて、おもしろみのない公園の景色をぼんやりと眺めていた。そこへ急に熱帯の輝きが目の前に広がった。向こうに待ちわびた姿が現れたのである。

「こんにちは、バーティ」エラのすぐ隣の椅子に、ズボンの具合に気を配りつつも、いそいそと腰をおろす相手に、落ち着いた声をかけた。「こんなに気持ちのいい春の昼下がりもないわね」

 そのせりふはエラの気持ちという意味ではまったくの嘘だった。バーティが来るまでは、こんなに気持ちいい、などという状態とはほど遠かった。

 バーティはその場にふさわしい返事をしたが、そこに問いかけるような響きを漂わせた。

「きれいなハンカチのセットをどうもありがとう」エラは相手の口にされなかった質問を察して答えた。「あんなハンカチがほしいと思ってたところだったの。プレゼント、ほんとにうれしかったんだけど、ひとつだけ気になることがあるの」ちょっと拗ねたようにつけくわえた。

「何だって」バーティは驚いてたずねた。女性が使うにしては大きすぎるのを選んでしまったのだろうか。

「わたし、すぐお手紙を書いてお礼が言いたかったのに」エラの言葉に、バーティの胸の内にたちまち暗雲がたれこめた。

「君もうちの母親がどんなだか知ってるだろ」とぼやいた。「ぼくに来た手紙は全部、開けちまうんだから。もしぼくが誰かにプレゼントなんかしたってわかったら、二週間はぐちゃぐちゃ言われるんだから」

「まさか二十歳にもなるっていうのに……」エラがそう言いかけた。

「ぼくはまだ二十歳じゃない、九月が来るまでは」バーティが口をはさむ。

「十九歳と八ヶ月にもなったら」エラは食い下がった。「自分宛ての私信ぐらいまかせてもらってもいいんじゃないかしら」

「確かにそうすべきだろうね。だけど物事はかならずしもそうすべきだからってそうはいかないものなんだ。母はね、誰宛てだろうが、うちに来た手紙は全部あけてしまうんだ。姉さんたちだってぼくだってもう何度も文句を言ってきたんだけど、ぜんぜんやめようとしないんだよ」

「わたしがあなたの立場だったら、きっと何かやめさせる方法を考えると思うわ」エラはきっぱりとそう言い切った。バーティにしてみれば、不愉快なしめつけを受けて返事さえ制限されているのかと思うと、さんざん頭を悩ませた末にプレゼントを贈ったときのなんともいえないすばらしい気持ちさえあせていくような気がした。


「何かあったのか」その晩、室内プールで会ったとき、友だちのクローヴィスがたずねた。

「なんでそんなことを?」

「室内プールでそんな憂鬱そうな雰囲気を身にまとってるんだから」とクローヴィスが言った。「ほかに身にまとってるものもろくにないんだもの、そりゃ目立つさ。彼女、ハンカチのセットが気に入らなかったのか」」

バーティはいきさつを説明した。

「くやしいのは」と言葉を続ける。「女の子にしてみたら、書きたいことがたくさんあるのに、手紙を出そうと思ったら、こっそりとまわりくどいやり方をしなきゃならないなんて」

「人間というものは、幸福に浸っているうちは決してそのことに気がつかないものなのさ」クローヴィスは言った。「ぼくなんか、いまは手紙を書かなくてすむようないいわけをひねりだすのに大汗をかいているんだから」

「冗談なんかじゃないんだ」バーティはいらだたしげに言った。「君のお母さんが、君の手紙を片っ端から開封してるとしたら、少しもおかしくないだろう

「おかしいのは君がお母さんにそんなことをさせてるってことさ」

「やめさせられないんだよ。もうさんざん言い合ったんだけど……」

「そういうことは話し合ったってダメなのさ。ほら、手紙が開封されるたびに、晩飯になるとテーブルの上でひっくり返って発作を起こしてみせるとか、真夜中、家中みんなにウィリアム・ブレイクの『無垢の歌』を暗唱して聞かせてやるとかすれば、そのさき抗議したときには、きっともっと聞いてもらえるさ。まわりの人間にしてみれば、食事の時間をめちゃくちゃにされるとか、夜中にたたき起こされるとかの方が、誰かが失恋するより、大問題なのさ」

「いいかげんにしろよ」バーティは腹を立て、いきなりプールに飛び込むと、クローヴィスに水をさんざんはねかした。

(この項つづく)


サキ「メスのオオカミ」(後編)

2009-02-06 22:47:53 | 翻訳
(後編)

「そうした力をふざけ半分にもてあそぶとひどい目に遭いますよ、とご注意申し上げたはずですが」とレオナルドはもったいぶった調子で言った。

「あなた、そんなことできないんでしょ」温室からメアリーが挑発するように笑う声が聞こえてきた。「もしできるんだったらぜひやってみせてくださいな。わたしをオオカミに変えられるものなら、受けて立ちますわよ」

 そう言った瞬間、メアリーの姿はアゼリアの茂みの向こうにかき消えた。

「ミセス・ハンプトン……」さらにもったいをつけて言いかけた言葉は、そこで途絶えてしまった。冷たい空気が部屋にさっと吹きこんだかと思うと、その瞬間、インコたちが一斉に耳をつんざくような悲鳴をあげた。

「メアリー、いったいどうしたんだ、あの鳥たちは」ハンプトン大佐は思わず大きな声を出した。だが、そのときいっそう大きく鋭い悲鳴がメイヴィス・ペリントンの口から漏れたために、一同は席を立ってそちらにかけつけた。そこで人びとはさまざまな反応を示すことになった。恐ろしさにすくんでしまった者、本能的に防御の構えを取る者……。その先にいるのは、シダとアゼリアを背景に、こちらをうかがっている灰色の獣だった。

 恐怖と混乱の渦から最初に立ち直ったのはミセス・フープスである。

「レオナルド!」ミセス・フープスは甥に向かって金切り声をあげた。「ミセス・ハンプトンをすぐ元に戻して! いまにもこっちに飛びかかってきそう。戻してちょうだい!」

「ぼ……ぼく、どうしたらいいか」震え声でレオナルドはそう言ったが、誰よりも仰天し、怯えきっている。

「何だって!」ハンプトン大佐が怒鳴りつけた。「きさま、うちの家内をオオカミに変えるようなけがらわしいことを勝手にしておいて、いまになって、元に戻すことができないなどと平気な顔でぬかすのか!」

 レオナルドのために正確を期していうなら、平気な顔というのは、そのときの彼のようすを形容するにはあまりふさわしい言葉とはいえなかったのだが。

「これはほんとうです。ぼくはミセス・ハンプトンをオオカミになんて変えてません。そんなつもりは毛頭ありませんでした」

「じゃあ家内はどこにいったんだ。どうしてあのオオカミが温室に入ってきたんだ」大佐は迫った。

「もちろん、あなたがミセス・ハンプトンをオオカミにしていないとおっしゃるのでしたら、わたしたちはそれを尊重しますよ」クローヴィスが礼儀正しく言った。「ただ、情況はあなたにとって厳しいということはおわかりでしょう」

「言い争いをしてる場合じゃありませんよ。あの獣がいまにもわたしたちを八つ裂きにしようと狙ってるのに」メイヴィスは涙を流して憤慨した。

「パブハム卿、あなたは野生の獣の扱いならお手のものでしょう……」ハンプトン大佐が水を向けた。

「野生の動物といってもわたしが慣れているのは」とパブハム卿が言った。「名の知られた業者から手に入れた保証書つきのものか、そうでなければうちの飼育場でわたしが育てたやつらばかりですよ。アゼリアの茂みからのんきに歩いてきたオオカミに遭ったのは初めてのことですからな。しかもお美しいと評判の奥方がどこへ行ったのかもわからないというのに。外見の特徴から察するに、北米産シンリンオオカミのメスの成体でしょう。普通種のカニス・ループスの一種です」

「もう結構、ラテン語の名前なんて」オオカミが一、二歩部屋に脚を踏み入れたので、メイヴィスが悲鳴をあげた。「エサでおびき出してどこかに閉じこめて、危害のないようにできませんの?」

「もしこれがほんとうにミセス・ハンプトンなら、すばらしいディナーをすませたばかりですからねえ、食べ物を見てもたいして興味は示さないんじゃないかな」クローヴィスが言った。

「レオナルド」ミセス・フープスは涙ながらに頼んだ。「もしこれをしたのがおまえでないにしても、おまえにはたいした力があるんだから、このオオカミがわたしたちに噛みついたりする前に、何か無害な動物に変えることはできないのかい? ウサギみたいなものに」

「ハンプトン大佐が奥方をつぎからつぎへとすてきな動物に変えるとなると、反対なさるんじゃないでしょうか。それじゃまるでぼくたちが奥方をもてあそんでいるみたいだ」クローヴィスがさえぎった。

「そんなことは断じて許さん」大佐は雷を落とした。

「わたしが飼ったことのあるオオカミは、たいてい砂糖が好きでした」とパブハム卿が言った。「効果があるかどうか、ひとつやってみてもかまいませんかな」

 パブハム卿は自分のコーヒーカップの受け皿から角砂糖をひとつ取ると、待ちかまえているルイーザに放ってやった。ルイーザは空中でぱくっと食いついた。一同から安堵のため息がもれた。少なくともインコを食い散らしたかもしれないようなオオカミが、角砂糖を食べたのを見て、その恐ろしさがいくぶん和らいだのである。そのため息は、パブハム卿がもうひとつ角砂糖をエサに、オオカミをうまい具合に部屋から外へ連れ出したときには、感謝のうめき声に変わった。すぐにみんなはオオカミのいなくなった温室に駆け込んだ。だが、杳として行方の知れないミセス・ハンプトンの代わりにインコの夕食用の皿があるばかりである。

「温室の戸は内側から鍵がかかってる!」クローヴィスは叫んだが、実は試すふりをして、手際よく鍵をかけたのだ。

 一同はビリシッターの方に詰め寄った。

「君が家内をオオカミに変えたのではないのなら」ハンプトン大佐は言った。「家内はどこへ消えたのか、ご説明願えませんか。鍵のかかった戸を抜けてどこにも行けるはずがないのは明らかですからな。北米産シンリンオオカミが突然温室へ現れたかの説明は、無理にとは言いませんが、うちの家内がどうなったか、調べる権利は私にあると思うんですが」

 ビリシッターは繰りかえし、わたしは何もしていません、と否定したが、みな口々に、そんなはずはない、といらだつのだった。

「もうここには一時間だっていられやしませんよ」メイヴィス・ペリントンが言い放った。

「もし奥様がほんとうに人間の姿でなくなったんなら」ミセス・フープスは言った。「ご婦人方はここにいちゃいけません。わたしだってオオカミの世話になるなんて、まっぴらごめんです」

「だけどメスのオオカミですよ」とクローヴィスが慰めるように言った。

 この非常事態にあって、礼儀にかなった態度がいかなるものか、それ以上は明らかにはならなかった。突然メアリー・ハンプトンが姿を現したので、議論の矛先はただちに別の方に向かったのである。

「だれかわたしを催眠術にかけたでしょう」メアリーは不機嫌そうに言った。「気がついたらどうでしょう、わたし、場所もあろうに食料貯蔵庫で、パブハム卿にお砂糖を食べさせてもらってたのよ。催眠術にかけられるなんて、ほんとうにいや。お医者様からはお砂糖にさわるだけでもダメだって言われてるのに」

 かくかくしかじかの事情であった、とミセス・ハンプトンに説明が、というか、説明と呼べるかどうかはなはだあやしくはあったが、そんなものがなされたのである。

「じゃ、あなたほんとうにわたしをオオカミに変えてくださったのね、ビリシッターさん!」興奮した彼女は叫んだ。

 だが、レオナルドは栄光の海に漕ぎだそうにも、自らのボートを燃やしてしまっていた。彼は打ちひしがれたようすで首を振るばかりだった。

「実はぼくだったんですよ、勝手ながらこんなことをさせてもらったのはね」とクローヴィスは言った。「まあ、ぼくはたまたまロシアの東北部に数年行ったことがあるんですよ。で、旅行しただけの人よりはあの地方の魔術のことなら詳しいんです。そういった不思議な力のことなんて、あんまり口にするものではないのですけれどね。ただ、ときに、あんまりおかしな話を聞かされると、ほんとうにそれを知っている人間が、シベリアの魔法を使えばどんなことができるものか、実際にやってみたい誘惑にかられてしまうんですよ。ぼくはその誘惑に負けてしまった、というわけ。ブランデーを少しいただけませんか。気力を使い果たしたもんだから、ちょっと意識がもうろうとしてきた」

 もしその瞬間、レオナルド・ビリシッターがクローヴィスをゴキブリに変えて、踏みつぶすことができたなら、彼は喜んでその両方をやってのけたにちがいない。


The End



サキ「メスのオオカミ」(中編)

2009-02-05 22:54:06 | 翻訳
(承前)

「こうしたことを冗談半分に口にするのはいかがなものかと思いますが」とレオナルドが言った。

「冗談半分じゃございませんことよ、わたし、真剣ですの。ただ、今日は困るわね。ブリッジができる人が8人しかいないんですもの。そうなったらひとつのテーブルが成り立たなくなってしまうわ。明日になったらもっと大勢が集まるでしょう。だから、明日の晩、ディナーが終わってから……」

「こういった秘められたパワーに対するわれわれの知識は、未だ不十分と言わざるを得ませんから、遊び半分ではなく、謙虚な態度こそが望ましいと思われます」レオナルドの口調はたいそう厳粛なものだったために、その話題はそこまでになった。

 クローヴィス・サングレールは、シベリアの魔術の可能性が話題になっているあいだは、めずらしく沈黙を守っていたが、昼食後、パブハム卿を誰にも邪魔されないビリヤード室に連れ込んでから、聞きたかったことを尋ねた。

「集めていらっしゃる野生動物のなかに、メスのオオカミはいませんか。どちらかというと、気性の穏やかなメスのオオカミがいいのですが」

 パブハム卿は考えてから「ルイーザだな」と言った。「シンリンオオカミのなかなかいいやつです。二年前に北極ギツネと交換したのですよ。うちの動物たちはみんな、さほどの時間もなしに手なづけることができるんです。わたしといるとね。ルイーザは天使のように穏やかといえるでしょう、メスのオオカミとしてはね。だが、どうしてそんなことを?」

「そいつを明晩、貸してくださいませんか」と、クローヴィスは飾りボタンかテニスラケットでも借りるように、無造作な調子で尋ねた。

「明日の晩ですか?」

「そうです。オオカミは夜行性の獣だから、夜遅くても平気ですよね」と、万事了解済み、といった調子で言った。「お宅の召使いか誰かに暗くなってから連れてこさせてくださいませんか。手伝いますから、ルイーザを温室に入れてやってください。メアリー・ハンプトンがこっそり出ていったのと入れ替わりにね」

 パブハム卿はしばらくのあいだ、無理もないことだが、とまどった表情でクローヴィスを穴のあくほど見つめていたが、やがて破顔一笑した。

「なるほど。それがあなたの手なんですな。ちょっとしたシベリア魔術をあなたの方がやろうというわけか。ミセス・ハンプトンも陰謀に加担する気十分、というところですか」

「メアリーは最後までつきあってくれる約束です。もし、ルイーザの性質をあなたが保証してくださるんならね」

「ルイーザのことならわたしが請け合いましょう」パブハム卿は言った。

 翌日、屋敷のパーティにはさらに大勢の人びとが集まり、ビリシッターの自己宣伝にこれ努めたいという本能もまた、観衆が増えたことに刺激されてうずきだした。その晩のディナーの席上で、彼は見えざるパワーや、真価のまだ問われていない力について長口舌をふるい、居間へ場所を移してコーヒーが配られても、その熱弁はとぎれることなく続いた。やがて一同がトランプをする部屋に移ることになった。

 ビリシッターの伯母さんがもり立ててくれたこともあって、みんな彼の話を礼儀正しく耳を傾けてくれたが、センセーションが大好きな伯母さんは、ただ話を聞かせるだけより、もっとドラマティックな何かを待ちわびた。

「レオナルド、あなたの力をもっとみなさんにわかっていただけるように、何かやってみせてくれないかしら?」と伯母がせがんだ。「何か、別のものに変えてみせてちょうだい。この人はね、それができるんですよ、そうしたいときにはね」

「あら、じゃ、やってみせてくださいな」メイヴィス・ペリングトンが熱心に言い、その言葉にこだまするように、その場にいた全員が繰りかえした。なかには容易に説得されない連中もいたのだが、彼らもまた、素人の手品であっても、楽しめるのなら大歓迎だと思っているのだった。

 レオナルドは、どうやら何かはっきりと目で見てわかるようなことを期待されているぞ、と思った。

「ここにおいでのみなさまのなかで、三ペンス銅貨か何か、特に価値のない、小さなものを持っていらっしゃいませんか?」

「まさかコインを消したりするような、原始的なことをやってみせるつもりじゃありませんよね」クローヴィスが軽蔑しきったような声を出した。

「わたしをオオカミに変えてほしいってお願いしたのに、それを聞いてくださらないんですもの、意地悪な方ね」メアリー・ハンプトンはそう言いながら、飼っているインコにえさをやるために、部屋を横切って温室に歩いていった。

(この項つづく)


サキ「メスのオオカミ」(前編)

2009-02-04 22:50:47 | 翻訳
今日からしばらくサキの短篇を訳していきます。
最初は「メスのオオカミ」という話。まとめて読みたい人はあさってぐらいにのぞいてみてください。

原文はhttp://haytom.us/showarticle.php?id=46

* * *

「メスのおおかみ」(上)


 レオナルド・ビリシッターは、この世界に何の魅力も興味も見いだせなくて、「見えざる世界」、自分が体験したり想像したり、ときにはでっちあげたりした世界で埋め合わせをしようとする連中のひとりだった。確かに子供もそういうことをたくみにやるものだが、自分がそう思いこめさえすれば、それで充分だ。ほかの人まで信じこませて、自分の信じる世界をありきたりのものにしてしまうようなことはしないのだ。ところがレオナルド・ビリシッターは自分の信じるものについて「ごく少数の人びと」にだけ、要するに自分の話に耳を傾けてくれるなら、誰にだって聞かせるのだった。


 もし、彼の神秘主義の知識の在庫が裏付けられるようなできごとがたまたま起こらなかったなら、あちらの世界に首をつっこむようになったといっても、透視家といっても内々のもの、ごくありきたり、あたりさわりのない話をするぐらいのものだっだろう。ウラル地方の鉱山に関わっている友人と一緒に東ヨーロッパを旅行したのだが、おりしも、ロシア鉄道の大ストライキの怖れが現実のものになりそうな時期に当たっていた。ストが勃発したのは彼が帰途についているさなか、ペルミの手前のことだった。数日間、名もない駅で停車したままになった汽車のなかで、彼は馬具や金具の取引をしている商人と知り合いになった。商人は動かないあいだの退屈しのぎに、このイギリス人旅行者に向けて、バイカル湖を渡って商売をしている連中や、その地方に住む人びとから聞いた民話を断片的に聞かせてやったのだ。レオナルドは国に帰って、ロシアでストライキに遭遇した話は何度もしたが、かの有名なシベリアの魔術に関しては、ちらりとほのめかすだけ、闇に包まれた神秘の数々については、容易に口を開こうとはしなかった。

その口がほどけかけたのは、一週間か二週間ほどしてからのこと、誰もまったく興味を示さなくなってしまったから、レオナルドは徐々に詳しいことを暗に示すようになった。なんでも彼の言うところでは、この神秘のパワーたるやすさまじい威力があって、その秘儀を許されたひと握りの者たちに授けられるのだとか。彼の伯母のセシリア・フープスは、真実も愛するが、センセーションならさらに愛するという人物だったものだから、行く先々で、レオナルドったらわたしの目の前でカボチャを鳩に変えて見せたんですのよ、と説明にこれ努める、願ってもないほどのにぎやかな広告塔となったのである。もっとも超能力を発揮したことに関しては、ミセス・フープスの想像力を考慮に入れて、いくぶん割り引いて受けとる人びともいたようだが。

 レオナルドが超能力者であるか、それともペテン師であるかは意見の分かれるところだったが、メアリー・ハンプトンの家で開かれたパーティに、超能力者、もしくはペテン師として、大物一歩手前の名声を持って登場したのだった。もちろん彼も自分に割り当てられた名声を避けるつもりはまったくない。神秘のパワーだの超能力だのということが、レオナルドか彼の伯母がいるところではどこでも話題の中心となり、そこで彼がやったこととかこれからできそうなことを、謎めかして口にしたり、暗に認めてみせたりしたのだった。

「ビリシッターさん、わたし、オオカミになってみたいわ」レオナルドが到着してつぎの火の昼食の席で、女主人が言った。

「おやおや、メアリー」ハンプトン大佐が言った。「おまえにそんな趣味があったとは夢にも思わなかったな」

「メスのオオカミよ、もちろんね」ミセス・ハンプトンは続けた。「気がついたらいっぺんに性別も種族も変わってしまってたらまごついてしまいますもの」


(この項つづく)


賢いウマ

2009-02-02 22:53:20 | weblog
鴎外と脚気問題を調べているときに読んだ『だます心 だまされる心』(安斎育郎 岩波新書)のなかにおもしろい話がでていた。「利口なハンス事件」である。

二十世紀初めのこと。
馬主であるフォン・オステンはつねづね「ウマは賢い生き物である」という信念を持っていた。動物に教育を施してやれば、まちがいなく人間と同じところまで知能を発揮できるにちがいないと考え、数字とアルファベットを特訓したのである。

数字は、一方の脚で十の位を、もう一方の脚で一の位をあらわす。つまり、右脚でコツコツコツと三回蹄を鳴らし、ついで左足でコツコツコツコツと四回鳴らせば、34を意味する、という具合である。
アルファベットも同様。
Hならば床をコツコツコツコツコツコツコツコツと八回鳴らす。
こうしてハンスはそこから苦節二年、数字とアルファベットを駆使し、単語を綴って文章を構成するスーパーお馬さんとなったのである。

そうなればもうしめたもの。以来ハンスはどんな質問をも的確に理解し、仕草によってその答えを教えてくれるようになった。
算数の加減乗除の計算も、分数を小数にすることも、日付や日時を答えるばかりでなく、「七時から五分経過すると、時計の短針・長針はどこをさすか」といった質問に答えることもできたのである。かくてハンスは「クレバー(賢い)・ハンス」と呼ばれることになった。

こう書くと、たいていの人は、馬主であるフォン・オステンが何かトリックをやっていると思うでしょう?(いや、わたしがそう思っただけなんだけど)
ところがこのフォン・オステン、「いささか変わり者ではあったのですが」というのは、わたしの文章ではない。安斎さんがそう書いているのであるが、いささか変わり者ではあったが、信望の厚い人格者だったのである。彼としては、ハンスに芸をさせるつもりはなく、あくまで教育を施したつもりだったのである。そのため、質問を希望する者は誰でも質問できたし、しかもそのたびにハンスは正解することができた。

そこでなんと科学者による調査委員会が設立され、調査・実験が繰りかえされた。その結果委員会は、「トリックは存在しない」という結論に到達したのである。

ところがその結論は数週間であっけなく潰えた。
どうしたのか。
一枚のカードに問題を書いて、それをたくさん用意する。そうして実験場にいた誰にも問題がわからないようにして、一枚をハンスにだけ見せる。すると、ハンスはどんなに簡単な問題さえも答えることができなくなってしまったのだ。

つまりハンスは問題ではなく、居合わせた人の側に注意を向けていたのだ。コツコツと脚を鳴らしながら、人間のちょっとした反応で「打ち止めの合図」のサインを受けとっていたのである。

研究者プングストはこう結論づけた。
「床打ち止めの合図となったのは、問題およびその答としての「必要な打数」を知っている質問者自身の、主として頭部の動きとしてあらわれるかすかな変化である」

つまり質問している人びとの、「ここで打ち終えるはずだ」「ここで止めてほしい」といった気持ちがわずかな変化をもたらし、無意識の動きとなってあらわれたというのである。

フォン・オステンはそんな技術を教えたわけではない。
だが、質問者が期待する答えを出せば、褒美にエサを与えられる。そのことから、二年間の訓練期間のなかで、質問者のかすかな変化を読みとる技術を独習していったのである。
やはり「クレバー・ハンス」はほんとうに賢いウマだったのである。

『だます心 だまされる心』には、この事件が以下のような教訓をもたらした、という。

①教師が教えるつもりでいることが、教師の意図どおり学習者に伝わるとはかぎらない。
②ただしい答えが出たからといって、学習者が教師の意図どおりの内容を正しく理解したと思いこんではならない。
③教師がどんなすぐれた教授法を採用しても、学習者しだいでは何の効果もしめさないことがある。

確かにこれはいずれもその通りであるように思う。

だが、それ以上に思うのは、わたしたちはおもしろいものが好きなのだ、ということだ。
ウマが答える、というと、わたしたちは楽しい。たとえば人間の大人が同じ問題を解いても、わたしたちはほとんど反応しないだろう。おもしろがるいきいきとした心の働きは、おそらく仕草や表情に出ていたにちがいない。賢いウマがそれを見逃すはずはないように思う。

言葉を使うわたしたちは、言葉の意味を日々やりとりしている、と思ってしまいがちだ。だが、ほんとうに受けとっているのは、元気そうな声だったり、自分を気遣ってくれている相手の思いやりだったり、体調や機嫌が悪そうだったり、ちょっとした相手の変化を受けとっているのだろう。言葉なら嘘も言えるが、そうしたものは嘘はつけない。言葉を使わない動物なら、もっとはっきりそうしたサインを感じ取るはずだ。

ハンスが求めていたのもご褒美のニンジンより、飼い主が喜ぶ表情だったのではないか、というと、擬人化がすぎるのだろうか。