陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サキ「メスのオオカミ」(後編)

2009-02-06 22:47:53 | 翻訳
(後編)

「そうした力をふざけ半分にもてあそぶとひどい目に遭いますよ、とご注意申し上げたはずですが」とレオナルドはもったいぶった調子で言った。

「あなた、そんなことできないんでしょ」温室からメアリーが挑発するように笑う声が聞こえてきた。「もしできるんだったらぜひやってみせてくださいな。わたしをオオカミに変えられるものなら、受けて立ちますわよ」

 そう言った瞬間、メアリーの姿はアゼリアの茂みの向こうにかき消えた。

「ミセス・ハンプトン……」さらにもったいをつけて言いかけた言葉は、そこで途絶えてしまった。冷たい空気が部屋にさっと吹きこんだかと思うと、その瞬間、インコたちが一斉に耳をつんざくような悲鳴をあげた。

「メアリー、いったいどうしたんだ、あの鳥たちは」ハンプトン大佐は思わず大きな声を出した。だが、そのときいっそう大きく鋭い悲鳴がメイヴィス・ペリントンの口から漏れたために、一同は席を立ってそちらにかけつけた。そこで人びとはさまざまな反応を示すことになった。恐ろしさにすくんでしまった者、本能的に防御の構えを取る者……。その先にいるのは、シダとアゼリアを背景に、こちらをうかがっている灰色の獣だった。

 恐怖と混乱の渦から最初に立ち直ったのはミセス・フープスである。

「レオナルド!」ミセス・フープスは甥に向かって金切り声をあげた。「ミセス・ハンプトンをすぐ元に戻して! いまにもこっちに飛びかかってきそう。戻してちょうだい!」

「ぼ……ぼく、どうしたらいいか」震え声でレオナルドはそう言ったが、誰よりも仰天し、怯えきっている。

「何だって!」ハンプトン大佐が怒鳴りつけた。「きさま、うちの家内をオオカミに変えるようなけがらわしいことを勝手にしておいて、いまになって、元に戻すことができないなどと平気な顔でぬかすのか!」

 レオナルドのために正確を期していうなら、平気な顔というのは、そのときの彼のようすを形容するにはあまりふさわしい言葉とはいえなかったのだが。

「これはほんとうです。ぼくはミセス・ハンプトンをオオカミになんて変えてません。そんなつもりは毛頭ありませんでした」

「じゃあ家内はどこにいったんだ。どうしてあのオオカミが温室に入ってきたんだ」大佐は迫った。

「もちろん、あなたがミセス・ハンプトンをオオカミにしていないとおっしゃるのでしたら、わたしたちはそれを尊重しますよ」クローヴィスが礼儀正しく言った。「ただ、情況はあなたにとって厳しいということはおわかりでしょう」

「言い争いをしてる場合じゃありませんよ。あの獣がいまにもわたしたちを八つ裂きにしようと狙ってるのに」メイヴィスは涙を流して憤慨した。

「パブハム卿、あなたは野生の獣の扱いならお手のものでしょう……」ハンプトン大佐が水を向けた。

「野生の動物といってもわたしが慣れているのは」とパブハム卿が言った。「名の知られた業者から手に入れた保証書つきのものか、そうでなければうちの飼育場でわたしが育てたやつらばかりですよ。アゼリアの茂みからのんきに歩いてきたオオカミに遭ったのは初めてのことですからな。しかもお美しいと評判の奥方がどこへ行ったのかもわからないというのに。外見の特徴から察するに、北米産シンリンオオカミのメスの成体でしょう。普通種のカニス・ループスの一種です」

「もう結構、ラテン語の名前なんて」オオカミが一、二歩部屋に脚を踏み入れたので、メイヴィスが悲鳴をあげた。「エサでおびき出してどこかに閉じこめて、危害のないようにできませんの?」

「もしこれがほんとうにミセス・ハンプトンなら、すばらしいディナーをすませたばかりですからねえ、食べ物を見てもたいして興味は示さないんじゃないかな」クローヴィスが言った。

「レオナルド」ミセス・フープスは涙ながらに頼んだ。「もしこれをしたのがおまえでないにしても、おまえにはたいした力があるんだから、このオオカミがわたしたちに噛みついたりする前に、何か無害な動物に変えることはできないのかい? ウサギみたいなものに」

「ハンプトン大佐が奥方をつぎからつぎへとすてきな動物に変えるとなると、反対なさるんじゃないでしょうか。それじゃまるでぼくたちが奥方をもてあそんでいるみたいだ」クローヴィスがさえぎった。

「そんなことは断じて許さん」大佐は雷を落とした。

「わたしが飼ったことのあるオオカミは、たいてい砂糖が好きでした」とパブハム卿が言った。「効果があるかどうか、ひとつやってみてもかまいませんかな」

 パブハム卿は自分のコーヒーカップの受け皿から角砂糖をひとつ取ると、待ちかまえているルイーザに放ってやった。ルイーザは空中でぱくっと食いついた。一同から安堵のため息がもれた。少なくともインコを食い散らしたかもしれないようなオオカミが、角砂糖を食べたのを見て、その恐ろしさがいくぶん和らいだのである。そのため息は、パブハム卿がもうひとつ角砂糖をエサに、オオカミをうまい具合に部屋から外へ連れ出したときには、感謝のうめき声に変わった。すぐにみんなはオオカミのいなくなった温室に駆け込んだ。だが、杳として行方の知れないミセス・ハンプトンの代わりにインコの夕食用の皿があるばかりである。

「温室の戸は内側から鍵がかかってる!」クローヴィスは叫んだが、実は試すふりをして、手際よく鍵をかけたのだ。

 一同はビリシッターの方に詰め寄った。

「君が家内をオオカミに変えたのではないのなら」ハンプトン大佐は言った。「家内はどこへ消えたのか、ご説明願えませんか。鍵のかかった戸を抜けてどこにも行けるはずがないのは明らかですからな。北米産シンリンオオカミが突然温室へ現れたかの説明は、無理にとは言いませんが、うちの家内がどうなったか、調べる権利は私にあると思うんですが」

 ビリシッターは繰りかえし、わたしは何もしていません、と否定したが、みな口々に、そんなはずはない、といらだつのだった。

「もうここには一時間だっていられやしませんよ」メイヴィス・ペリントンが言い放った。

「もし奥様がほんとうに人間の姿でなくなったんなら」ミセス・フープスは言った。「ご婦人方はここにいちゃいけません。わたしだってオオカミの世話になるなんて、まっぴらごめんです」

「だけどメスのオオカミですよ」とクローヴィスが慰めるように言った。

 この非常事態にあって、礼儀にかなった態度がいかなるものか、それ以上は明らかにはならなかった。突然メアリー・ハンプトンが姿を現したので、議論の矛先はただちに別の方に向かったのである。

「だれかわたしを催眠術にかけたでしょう」メアリーは不機嫌そうに言った。「気がついたらどうでしょう、わたし、場所もあろうに食料貯蔵庫で、パブハム卿にお砂糖を食べさせてもらってたのよ。催眠術にかけられるなんて、ほんとうにいや。お医者様からはお砂糖にさわるだけでもダメだって言われてるのに」

 かくかくしかじかの事情であった、とミセス・ハンプトンに説明が、というか、説明と呼べるかどうかはなはだあやしくはあったが、そんなものがなされたのである。

「じゃ、あなたほんとうにわたしをオオカミに変えてくださったのね、ビリシッターさん!」興奮した彼女は叫んだ。

 だが、レオナルドは栄光の海に漕ぎだそうにも、自らのボートを燃やしてしまっていた。彼は打ちひしがれたようすで首を振るばかりだった。

「実はぼくだったんですよ、勝手ながらこんなことをさせてもらったのはね」とクローヴィスは言った。「まあ、ぼくはたまたまロシアの東北部に数年行ったことがあるんですよ。で、旅行しただけの人よりはあの地方の魔術のことなら詳しいんです。そういった不思議な力のことなんて、あんまり口にするものではないのですけれどね。ただ、ときに、あんまりおかしな話を聞かされると、ほんとうにそれを知っている人間が、シベリアの魔法を使えばどんなことができるものか、実際にやってみたい誘惑にかられてしまうんですよ。ぼくはその誘惑に負けてしまった、というわけ。ブランデーを少しいただけませんか。気力を使い果たしたもんだから、ちょっと意識がもうろうとしてきた」

 もしその瞬間、レオナルド・ビリシッターがクローヴィスをゴキブリに変えて、踏みつぶすことができたなら、彼は喜んでその両方をやってのけたにちがいない。


The End