陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

それ、いくら?

2009-02-22 22:35:59 | weblog
ちょっと前に、以前、下の階が火事になった話をした。
その後日談なのだが、火事から二週間ほどがたったころ、その火事を出した家の人が「お詫び」としてお金を持ってきた。自分の部屋が全焼し、住むところもなくなった人からお金を受けとるのは、何か心苦しかったのだが、まあこういうときに見舞い金を払うというのは常識的に考えてもふつうのことだろうと思って、わたしは封筒を受けとった。

不思議なもので、そんなものの相場があるのかどうかさえ知らなかったはずなのに、わたしの頭のなかには「だいたいこのぐらい」という目安があったらしい。封筒を開けて、思ったよりはるかに多い紙幣が入っていたのにびっくりして、あわててその人に返しに行った。

熱であおられた鉢植えがダメになったり、網戸が溶けたり、窓ガラスにひびが入ったりの実害はあったにせよ(窓ガラスに関しては、共有設備ということで、アパートの管理組合が入っている保険でまかなわれることになっていた)、それ以上なかったのだ。そんな額は受け取れない。

受け取ってください、こんなに受け取れません、の押し問答があったのち、火元の人は
「じゃ、どのくらいが適当ですかねえ」とわたしに聞いてきた。
わたしとしても、答えられるはずがない。いっそ「お詫びの気持ちだけ」の方がすっきりする、と思ったわたしがそう言うと、それは困ります、と相手は言う。そこで相手は、じゃ、半分ということで、と、封筒から半分を抜いて、残りを渡してくれた。

半分でも、実害と比較すると、もらいすぎなのだ。それでも、これくらいならいいか、という範囲であるように思えて、お気遣いありがとうございました、といって受け取った。

だが、受け取って良かったのか、のちのち気になった。
何人かの人に、もらうべきだったのか、とか、そういうときの相場などを聞いてみた。

ところが相場というのも、誰に聞いても、火事に遭った知り合いに「お見舞い」を出すんだったらわかるけれど……という。その相場にしても、何か根拠がある数字ではなく、なんとなくみんなそのぐらいを出しているらしい、ぐらいのものでしかない。

なかには「怖い思いをしたのだから、くれるというのなら、それだけもらったって全然多すぎるとは思わない」という人もいて、値段のないものに値段をつけることのむずかしさを感じた経験だった。

ネットの広告に、「あなたの適正年収を診断します」というものがある。学歴や資格など、いくつかの項目に記入すると、「適正年収」が出るらしいのだが、これはいったいどうやって割り出すのだろうか。公務員の給与あたりを基準にしているのだろうか。

だが、その「尺度」がいったいどこから割り出されたものなのだろう。しかも、それを自分に当てはめる根拠がどこにあるのだろうか。だが、こういう基準さえないところでは、自分に値段をつけることは不可能なのだ。わたしたちは暫定的に、そういう基準が適切であるかのようにふるまっている。

慰謝料というのも、よくわからないものだ。
知り合いに慰謝料をもらって離婚した人がいるが、離婚が成立して慰謝料をもらったときに、何ともいえない空虚感を感じたそうだ。いろいろもめて、調停を申し立てて、それが銀行に振り込まれた数字となって表れて、もちろん調停でそれを受け入れてはいても、「自分の苦しみはこの値段だったのか」と、愕然とする思いだった、という。「その気持ちは経験者じゃないと絶対にわからない」と言っていた。わたしも聞いていて、そんなものなのだろうと思ったのだった。

わたしたちは自分の能力とか、感情とか、本来なら値段のつけようのないものに値段をつけている。別の言い方をすれば、本来「質」としてあるものを、「量」に置き換えて、計測しているのだ。「わかったかどうか」をテストの点数で判定する小学生時代からの経験をふまえて、わたしたちはふだんそれを当たり前のように受け入れているけれど、それは本来、ずいぶんおかしなことだ。その置き換えが適切なものなのかどうなのか、判断のしようがないからだ。

だが、非日常的な感情の激しい揺れを経験したときに、不意に、質が量として計測されることの違和感が兆す。
なぜ、それにその値段がついているのだろう。

そうやってみると、ものの値段、というのはどこまでいってもよくわからないものだ。