陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

朝の占い

2009-02-16 22:38:15 | weblog
先日まで訳していたサキの「暦」だが、昔、わたしのうちにも酒屋が持ってきてくれる大ぶりの日めくりの端に、毎日占いのようなものがついていた。いまでもJRに乗ると、車内のモニターに星占いが出る。インターネットにつないで、msn でも goo でも yahoo でもポータルサイトにアクセスすれば、たいてい星占いが端の方に出てくる。

わざわざ自分から進んで見に行ったりはしなくても、目に飛び込んでくればとりあえず自分の星座は見る。占いなど信じていなくても「周りの人の気持ちも考えて行動しましょう」とあれば、頭の隅に留めておく。たとえ駅を出る頃には忘れてしまっていても、とりあえずその場では自分の星座を確認せずにはいられない。

わたしたちはそんなに占いが好きなんだろうか。
毎日目にしても、当たったかどうかなど、ほとんど気にしない、というか、昼過ぎまで覚えていることはまれではないか。そんなに好きなら、もっと意識に留めておいて、当たったか当たらなかったかの結果を大切にするのではないか。そういえば「幸運な一日」とあったけど、別にたいしたことはなかったなあ、と寝る前にひょいと思い出すことがあるにせよ、それで落胆することもなく、その占いを書いた占い師(?)を恨みに思うようなこともないだろう。

こんなふうに考えていくと、わたしたちは「占いが当たっているかどうか」ではなく、「今日という日」の目安がほしいのかもしれない、という気がする。

知らないところへ行く道は遠い。不安になりながら、初めての場所へ行く。ところがそこから帰る道は、あれ、こんなに近かったのか、と思う経験は、だれにもあるのではあるまいか。

それでも、たとえ行ったことがなくても、その近くへ行ったことがあったり、目印になる場所を知っていたりすれば、その不安感はずいぶんちがう。

新しい日に向き合うわたしたちは、知らないところへ行くのと一緒だ。占いは、地図の代わりにはならなくても、漠然とした「あそこらへん」ぐらいの目安にはなる。そうやって、一日が軌道にのってしまえば、もはやその目安はいらなくなる。

占いを信じているわけではない。それでも、目安があればのっぺらぼうの一日にめりはりがつく。わたしたちが求めているのは、おそらくはアドバイスではなく「めりはり」なのだ。言ってみればそのアドバイスというのは何でもいいのだ。

サキの短篇の「暦」では、ヴェラたちはごく当たり障りのないことを書いておいて、当たったかどうかの判断は、読み手に任せている。
けれども読み手が求めていたのは「当たるかどうか」ではなく、背中を押してくれる「目安」であったと考えると、18ペンス分の価値は十分あったにちがいない。

(※このところ風邪を引いてちょっと体調を崩していました。
のぞいてくださった方、無駄足踏ませてしまってごめんなさいね。
いま別の記事をひとつ書いていて、サキもそのうちアップします)