陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

再開します

2009-02-28 22:54:13 | weblog
女の子ということもあるのだろうが、小さいころ、外で走り回って遊んだという記憶が数えるほどしかない。その数少ない記憶が、いつ、どこで、誰と、という具合に、細部にいたるまで異様にはっきりしているので、おそらく当時のわたしにとって、それらはいかにも特殊な体験だったのだろう。

そのころ遊びといえば、スケッチブックにクレヨンで絵を描いたり、人形たちに壮大な王朝物語を演じさせたり、あとはもう本を繰りかえし読んだりするぐらいだったのではあるまいか。そうした遊びのことは、何をした、ということではなく、ガラス戸を開け放った廊下にぺたっとすわって人形を動かしているときに、不意に降り出した天気雨の、不思議なほどきらきらしていた雨粒とか、スケッチブックからはみ出して畳についてしまった水色のクレヨンの油っぽいにおいとか、本を読んでいた部屋の畳の縁の模様とかの記憶と一緒になって残っている。

たいてい家にいたわたしにとって、夏も冬もほとんど関係なさそうなものだが、そのころ冬ならではの記憶といえば、扁桃腺を腫らして高い熱を出して寝込んだときのものだ。

石油ストーブの上には薬缶が載って、チンチンとかすかな音が聞こえる。ときどき湯冷ましをもらう以外は、ほとんど何も口にしないせいで、口のなかが妙にねばつき、舌の奥に苦い味が残ったような気がする。そうしてかならず三度、スプーンで飲まされる水薬の、変な甘ったるさ。そんなときかならず、以前小児科で見かけた奇妙な男の子のことを思い出すのだった。自分と同じくらいの年の子で、お母さんが帰り際に水薬をもらうや否や、それちょうだい、と手を伸ばし、薬ビンからぐびぐびと口飲みし、そこまで、と言われると、もっと飲ませろ、とダダをこねていた子供のことだ。あの子はこの味のどこがそんなに気に入ったのだろう、と、水薬を飲むたび、不思議だった。

やがて症状も落ち着いてくると、苦しさもなくなる。それでも足の裏の熱さだけは気持ち悪く、布団のつめたい場所を探してそこに置いても、そこもまたすぐに温まってくるのだ。そのころは意識もはっきりしていて、本棚の背表紙を眺めながら、一冊ずつその中身をあれやこれやいろんなことを考えているのだが、寝た記憶もないのに、部屋の影が急に向きを変えているのだった。

ときどき冷たい手が額の上に載せられる。もう熱はないね、という言葉といっしょに、しんどくない? とか、何か食べたいものはある? とか、寒くない? とかと聞かれるのだが、その質問にはほとんど意味はないし、答えにも意味はない。それでもかまってもらえるのはうれしかった。

そこから少しずつ起きる時間が長くなってくると、もはやほかの日々とまぎれてしまって、記憶には残っていない。明日は久しぶりの学校だという夜は、クラスの様子はどうなっているだろう、と少し緊張しながら、ランドセルに時間割に合わせて教科書やノートを詰めたものだった。その緊張は、学校へ入るまで続くのだが、たいがい教室に入る前にクラスメイトに声をかけられて、自分がそれまで休んでいたことさえも忘れてしまうのだった。


長いことお休みして申し訳ありません。
休んだあいだものぞきにきてくださったみなさん、気にかけてくださってどうもありがとうございました。
また今日から再開です。
今後ともよろしく。