陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

恥ずかしいことですよ?

2009-02-18 22:55:21 | weblog
冷凍餃子事件の頃だから、一年ほど前のことになる。
ニュースのなかで、街頭インタビューをやっていた。

餃子事件についてどう思いますか、とマイクを向けられて、主婦とおぼしき女性が、「自分が食べるものを輸入に頼るなんて、恥ずかしいことですよ」と非難する調子で言ったので、ものすごく奇妙な気がした。
ところがこの奇妙さは、それを伝えたリポーターもスタジオのアナウンサーも感じなかったらしく、その奇妙なコメントは「街の声の代表」のように、全体のなかに織り込まれていったのだった。

わたしはそのとき、この人の「恥ずかしいことですよ」の主語は何だろうと思ったのだ。

「わたし」が「恥ずかしい」のか。
「わたしが、(自分が食べるものを輸入に頼っている)日本人を、(その一員として)恥ずかしく感じる」という意味でこの言葉が口にされたのなら、少なくとも「恥ずかしい」のは自分を含む日本人であるから、非難のニュアンスがこもるのはおかしくはないか。

「わたしが恥ずかしい」というとき、人は外に向けた非難のニュアンスをそこにこめることはしない。非難というのは、あくまでも自分以外の人びとに向けられるものだ。

そう考えていくと、この人の「恥ずかしいことですよ」は、「それは恥ずかしいことなのだから、恥と知るべきです」という文章の省略形のように思えてくる。

だからこのとき「恥ずかしい」の主語は「(自分が食べるものを輸入に)頼ることが」ということになるのだろう。

では、そう言っている人は、いったいどこに立ってこの発言をしているのだろうか。
「わたしが恥ずかしい」なら、恥ずかしくないような行動を考えなければならない。
けれども「××することが恥ずかしい」というのは、「空が青い」と一緒で、それを言っている人は何の関係もない。
「空が青いですね」
「今日は寒いですね」
「それは恥ずかしいことですね」

どこかに「あるべき正しいやり方」があって、現在の状態をそれと引き比べて「恥ずかしいことですよ」と客観的に評価しているのだ。

だが、それを言っている人は、ほんとうにそのことと無関係なのだろうか。
冷凍餃子事件が明らかにしたのは、こういうことではなかったか。
安いから、手に入れやすいから、という理由で輸入食品を購入していた。農業生産者が現在置かれている状況を、自分がまったく知らないことにさえ気がついていなかった。
恥ずかしいのはこの自分なのだ。

首相が簡単な漢字さえ読めないという報道が新聞をにぎわしていたころ、わたしはこのときのインタビューを思い出していた。そうしてG7での元財務大臣の記者会見での応答をめぐる報道についても、「恥ずかしいことですよ」の大合唱を聞いたように思ったのだ。

だが、そういう首相や財務大臣を戴いているのは、わたしたちなのだ。
恥ずかしいのは、誰なのか。
なのに新聞のトーンは、もれなく引用してある海外のメディアの報道と、いささかも変わりはない。「恥ずかしいことですよ」と言っていれば、それですむのか。

去年のちょうどいまごろ、中野好夫の文章を引用して、「指導者出よ?」という文章を書いた。

戦後まもない昭和21年三月、中野はこう書く。
戦争中ついに私に諒解できなかったことは、指導者出でよ、大号令を待つ、というあの国民の声である。さらにもっと滑稽なのは、国民の準備はできている、今はただ大号令を待つのみ、というあの悲鳴である。それも一般大衆だけならまだしもだが、堂々たる知識層も言った。一流の新聞紙までが臆面もなく三日に一度は書いた。(中略)
一体号令してくれとは、正直言って一人前の成人のそう口にすべき言葉ではないはずである。民主主義に再出発するという日本人が真剣に考え直さなければならない問題ではないかと思う。
(中野好夫「歴史に学ぶ」『ちくま日本文学全集 中野好夫』所収 筑摩書房)
わたしたちはいまも待っているのだろうか。すばらしい指導力を発揮してくれる首相や大臣が登場して、大号令を発してくれるのを。そうして、どこかにいるすばらしい指導者と引き比べて、現在の首相や元財務大臣を「恥ずかしい」と批判しているのだろうか。

そう考えていくと、わたしたちは自分たちにふさわしい人びとを、自分たちの代表に戴いている、と言えるのかもしれない。


……うん、勉強しよう。