今朝、起きて水槽に目をやると(ベッドの前に水槽があるのだ)、ふだんならまだ寝ている時間なのに、キンギョたちが水面に鼻面をならべて、ぱくぱくしている。
シマッタ、と思った。
このところなんだかんだやたらと忙しくて、うっかりしていたら十日ほど水槽の水換えをしていなかったのだ。水槽には病気予防のためにヒーターを入れているので、常時25,5°、常春の水槽である。常春水槽で気持ちよく活溌に動き、良く食べるキンギョたちは、酸素不足になってしまったのだ。おまけに夜の間はあかりを消しているから、水草も光合成をしないし。
かわいそうなことをした、と、朝もはよから(ちなみに五時前)お湯を沸かし、水換えにせいをだす羽目になってしまった。
ともかく水を換え、朝ご飯に冷凍アカムシを奮発し(朝からヘヴィー級の食事だが、哀れこいつらは一日に一食しか餌をもらえないのである)、それからやっとこちらは朝のコーヒーにありついたのだった。
だいたいわたしは週一のペースで水換えをしているのだけれど、インターネットで検索してみると、三日に一度、という人もいれば、一ヶ月に一度で十分、という人もいる。人口密度、じゃなかった魚口密度と水槽の大きさ、浄化システムによるのは当然であるとしても、水換えはなるべくしない方が水槽の安定を保てる、キンギョに負担をかけない、という意見があれば、また、酸素不足、亜硝酸が溜まるから、頻繁な水換えは不可欠、という説まで、実に百花繚乱、選り取りみどりなのである。
わたしも最初はいろいろ試してみた。いまより過密飼育をしているころは、三日に一度を続けていたこともある。それでも飼育に慣れるにしたがって、なんとなくキンギョのコンディションというのが読めるようになってくる。そうしながら義理と人情、じゃなかった、労力と状況を秤にかけて、「水の換え時」の頃合いを量るのである。そうやって落ちついた「一週間」なのだった。
ただこうやってうっかり忘れたりすると、キンギョも大変だ。水質が悪いから出ていく、という手段が取れないだけに、キンギョとしては、望もうが望むまいが、生殺与奪の権利を全面的にわたしに委ねるしかないのである。
もちろん、こんなちっぽけな水槽に閉じ込められてかわいそうだ、という気がしないわけではない。たとえそうではあっても、たとえばもっと広い川に放流してやって、泳ぐのさえヘタクソなキンギョが生きていけるわけではないのだ。そもそもキンギョの「かわいそう」「幸せ」などという規準が何をもってそうであると言えるのか、その目安など、キンギョならぬ身のわれわれには推し量る術さえないのである。
昔、ネコを飼っていたころのこと。
イカが好きなネコがいて、イカの刺身でも食卓に出ようものなら、弾丸のように走ってきていた。あまり食べたがるのでふたきれほどやっていたのだが、ネコにイカを食べさせたら腰が抜ける、という話を、母が聞きこんできた。
それでもやはり食べたがる。煮物にしても飛んでくる。
ちょうどそのころ、わたしは英語のテストか何かで、こんな内容の文章に出会ったのだった。
子供の好き嫌いというのは気にする必要がない。子供は自分の身体が欲しているものをほしがるものなのだ。子供に好きなものばかり食べさせてみたが、不思議と栄養のバランスはとれていた。子供は自分の必要を知っている。それにタガをはめるようなことをすると、身体の野生を失う。
細かいところはちがっているかもしれないけれど、大ざっぱな内容というのは、こんなものだった。
だから、大丈夫だよ、とわたしは主張したのだ。
ノアールだって自分の体のことはわかってる。体にほんとうに悪いのだったら、ほしがらないよ。
なんとなくその主張が通った格好になって、それ以降もそのネコは、イカが夕食にのぼるたびに、いくばくかをもらっていたような気がする。
未だにネコがイカを食べると腰が抜けるのかどうかわたしはよく知らないのだけれど、そうした因果関係というのは、このあいだの納豆ダイエットの例を引くまでもなく、どこまでそれが言えるのかどうなのか、ほんとうはよくわからないのではないだろうか。たとえばあの解熱鎮痛作用があるというアスピリン、アスピリンでどうして頭痛が治まるのか、実はよくわかっていない、というのを昔読んだことがあって(もしかしたらいまはその因果関係も解明しているのかもしれないけれど)、あらゆる因果関係というのは、解釈である、と考えているわたしとしては、そんなものなのだろうと思ってしまう。いくらそれが「確からしい」ように思えても、また別の「原因」が何かの拍子で見つかる可能性はいくらでもあるのだ。
そういうところでネコがほしがっているものを食べさせない、というのは、なんだかちがうような気がするのだ。
たとえ同じ人間同士であっても、わたしたちは他人のことはわからない。
どれほど相手のことを考えていても、その人がほんとうはどう思っているか、わからない。
その人に対してどうするのがいいのか。
どうすることがほんとうにその人にとっていいことなのか。
そんなことはどれだけ考えてもわからない。
だって、自分のことですらどうしたらいいかなんてほんとうはわからないのだから。
どうせわからないのだから、と、自分の願望を押し通すのではなく、自分の推量でしかない判断を相手に「思い遣り」として押しつけるのでもなく、多くの場合、わたしたちはいろんな方法を少しずつ試したり、妥協したり、ときに無理押ししてみたり、譲歩したりを繰りかえすしかない。それがいいことか、悪いことかもわからないまま、考えたり、ためらったり、諦めたり、それでも何か試したり、続けていくしかない。
そうして、そういうことができるのも、結局は相手を信頼しているからなのだろう。
ネコがほしがっているものを食べさせる、というのも、ネコの判断、言い換えれば、ネコの体の「野生」を信じるということではないのだろうか。
水換えのタイミングにしても、キンギョの判断(?)に従うのが、一番いいように思うのだ。
そもそもペットを飼うということは、動物である彼らを人間の環境に移し替えることだから、相手の野生を飼い慣らす、ということでもある。キンギョはもはや外の環境では生きていけない。
やはりわたしたちはどこかでそれを「人間のエゴ」のように考えてしまう。事実、それはそうなのかもしれないけれど、人間と暮らして長いそうした生き物が、たとえその結果本来の「野生」を失ったとしても、それがほんとうに不幸なことなのか、それはなんとも言えないように思う。
結局は、わたしたちが彼らとどう楽しい時間を過ごせるか、ということでしかないように思うのだ。
少なくともわたしはキンギョが泳いでいるのを、ぼけーと見ているのは、心安らぐひとときである。
少なくとも泳いでいるということは、すなわち着底していない、病気の治療をする必要がない、ということだから。今日水換えしておけば、あと六日は餌だけやっておけばいい、ラクができる、ということなのだ。
シマッタ、と思った。
このところなんだかんだやたらと忙しくて、うっかりしていたら十日ほど水槽の水換えをしていなかったのだ。水槽には病気予防のためにヒーターを入れているので、常時25,5°、常春の水槽である。常春水槽で気持ちよく活溌に動き、良く食べるキンギョたちは、酸素不足になってしまったのだ。おまけに夜の間はあかりを消しているから、水草も光合成をしないし。
かわいそうなことをした、と、朝もはよから(ちなみに五時前)お湯を沸かし、水換えにせいをだす羽目になってしまった。
ともかく水を換え、朝ご飯に冷凍アカムシを奮発し(朝からヘヴィー級の食事だが、哀れこいつらは一日に一食しか餌をもらえないのである)、それからやっとこちらは朝のコーヒーにありついたのだった。
だいたいわたしは週一のペースで水換えをしているのだけれど、インターネットで検索してみると、三日に一度、という人もいれば、一ヶ月に一度で十分、という人もいる。人口密度、じゃなかった魚口密度と水槽の大きさ、浄化システムによるのは当然であるとしても、水換えはなるべくしない方が水槽の安定を保てる、キンギョに負担をかけない、という意見があれば、また、酸素不足、亜硝酸が溜まるから、頻繁な水換えは不可欠、という説まで、実に百花繚乱、選り取りみどりなのである。
わたしも最初はいろいろ試してみた。いまより過密飼育をしているころは、三日に一度を続けていたこともある。それでも飼育に慣れるにしたがって、なんとなくキンギョのコンディションというのが読めるようになってくる。そうしながら義理と人情、じゃなかった、労力と状況を秤にかけて、「水の換え時」の頃合いを量るのである。そうやって落ちついた「一週間」なのだった。
ただこうやってうっかり忘れたりすると、キンギョも大変だ。水質が悪いから出ていく、という手段が取れないだけに、キンギョとしては、望もうが望むまいが、生殺与奪の権利を全面的にわたしに委ねるしかないのである。
もちろん、こんなちっぽけな水槽に閉じ込められてかわいそうだ、という気がしないわけではない。たとえそうではあっても、たとえばもっと広い川に放流してやって、泳ぐのさえヘタクソなキンギョが生きていけるわけではないのだ。そもそもキンギョの「かわいそう」「幸せ」などという規準が何をもってそうであると言えるのか、その目安など、キンギョならぬ身のわれわれには推し量る術さえないのである。
昔、ネコを飼っていたころのこと。
イカが好きなネコがいて、イカの刺身でも食卓に出ようものなら、弾丸のように走ってきていた。あまり食べたがるのでふたきれほどやっていたのだが、ネコにイカを食べさせたら腰が抜ける、という話を、母が聞きこんできた。
それでもやはり食べたがる。煮物にしても飛んでくる。
ちょうどそのころ、わたしは英語のテストか何かで、こんな内容の文章に出会ったのだった。
子供の好き嫌いというのは気にする必要がない。子供は自分の身体が欲しているものをほしがるものなのだ。子供に好きなものばかり食べさせてみたが、不思議と栄養のバランスはとれていた。子供は自分の必要を知っている。それにタガをはめるようなことをすると、身体の野生を失う。
細かいところはちがっているかもしれないけれど、大ざっぱな内容というのは、こんなものだった。
だから、大丈夫だよ、とわたしは主張したのだ。
ノアールだって自分の体のことはわかってる。体にほんとうに悪いのだったら、ほしがらないよ。
なんとなくその主張が通った格好になって、それ以降もそのネコは、イカが夕食にのぼるたびに、いくばくかをもらっていたような気がする。
未だにネコがイカを食べると腰が抜けるのかどうかわたしはよく知らないのだけれど、そうした因果関係というのは、このあいだの納豆ダイエットの例を引くまでもなく、どこまでそれが言えるのかどうなのか、ほんとうはよくわからないのではないだろうか。たとえばあの解熱鎮痛作用があるというアスピリン、アスピリンでどうして頭痛が治まるのか、実はよくわかっていない、というのを昔読んだことがあって(もしかしたらいまはその因果関係も解明しているのかもしれないけれど)、あらゆる因果関係というのは、解釈である、と考えているわたしとしては、そんなものなのだろうと思ってしまう。いくらそれが「確からしい」ように思えても、また別の「原因」が何かの拍子で見つかる可能性はいくらでもあるのだ。
そういうところでネコがほしがっているものを食べさせない、というのは、なんだかちがうような気がするのだ。
たとえ同じ人間同士であっても、わたしたちは他人のことはわからない。
どれほど相手のことを考えていても、その人がほんとうはどう思っているか、わからない。
その人に対してどうするのがいいのか。
どうすることがほんとうにその人にとっていいことなのか。
そんなことはどれだけ考えてもわからない。
だって、自分のことですらどうしたらいいかなんてほんとうはわからないのだから。
どうせわからないのだから、と、自分の願望を押し通すのではなく、自分の推量でしかない判断を相手に「思い遣り」として押しつけるのでもなく、多くの場合、わたしたちはいろんな方法を少しずつ試したり、妥協したり、ときに無理押ししてみたり、譲歩したりを繰りかえすしかない。それがいいことか、悪いことかもわからないまま、考えたり、ためらったり、諦めたり、それでも何か試したり、続けていくしかない。
そうして、そういうことができるのも、結局は相手を信頼しているからなのだろう。
ネコがほしがっているものを食べさせる、というのも、ネコの判断、言い換えれば、ネコの体の「野生」を信じるということではないのだろうか。
水換えのタイミングにしても、キンギョの判断(?)に従うのが、一番いいように思うのだ。
そもそもペットを飼うということは、動物である彼らを人間の環境に移し替えることだから、相手の野生を飼い慣らす、ということでもある。キンギョはもはや外の環境では生きていけない。
やはりわたしたちはどこかでそれを「人間のエゴ」のように考えてしまう。事実、それはそうなのかもしれないけれど、人間と暮らして長いそうした生き物が、たとえその結果本来の「野生」を失ったとしても、それがほんとうに不幸なことなのか、それはなんとも言えないように思う。
結局は、わたしたちが彼らとどう楽しい時間を過ごせるか、ということでしかないように思うのだ。
少なくともわたしはキンギョが泳いでいるのを、ぼけーと見ているのは、心安らぐひとときである。
少なくとも泳いでいるということは、すなわち着底していない、病気の治療をする必要がない、ということだから。今日水換えしておけば、あと六日は餌だけやっておけばいい、ラクができる、ということなのだ。