星新一のショートショートに『おーい、でてこい』というものがある。
突然、穴が出現する。誰かが隠れているのだろうか、と「おーい、でてこーい」と呼んでも、返事はない。石を投げてみても、底に届いた音がしない。そこでみんないろんなものをその穴に捨て始める。死体だの、廃棄物だの、ありとあらゆるものを捨ててしばらくしてから、上の方から「おーい、でてこーい」という呼び声がして、石が降ってくる……。
これを劇にしたものを、小学校のときの弟のクラスがやることになった。
台本を見せてもらったのだが、クラス全員にせりふが行き渡るように、町の人のせりふこそ増やしてあるけれど、ほぼ原作通りに進行する。ところが最後に、石が落ちたあとに「このあと、町の人たちが捨てたものが、あとからあとから降ってきたのでした」というナレーションがつけ加えられているのだ。
なんでこんないらないことをするんだろう、と腹が立った。そんな蛇足をつけてしまうと、原作のシャープなエンディングが台無しになってしまうじゃないか。
ともかくわたしは中学が休みだったか何かで、その劇の発表会を、母の代理で見に行ったのだった。
劇はつつがなく進行し、「おーい、でてこーい」という声がしたあと、石が落ちてきた。
そうして、幕が下りた。
わたしのまわりで、お母さんたちがざわざわとどよめいている。クエスチョンマークがあちこちで浮かんでいるのが見えるようだ。そこにナレーションが入った。
「ああ、そういうこと」と、あきらかにホッとした空気が流れたのだった。
ナレーションは、ショートショートを戯曲化したおそらく先生なのだろうけれど、そのつけたしは、完全に功を奏したのだった。
このとき、わたしは「本を読むこと」とそれを見ることにはちがいがあることを知ったのだった。
本を映像化したものをわたしたちは映画やドラマで見ることがあるけれど、本と、そうした映像とのあいだには、ずいぶん差がある。
たいていは主要な筋はそのままであるにしても、細かなエピソードなどはずいぶん落としてあることが多い。だから、本を読んで、映像化されたものを見ると、なんとなくスカスカになったような印象を受けることが多い。
それは、本で読むことにくらべて、映像の方がとらえにくいからなのではないだろうか。
よく百聞は一見に如かず、という。本では、ときには一ページ以上も費やして、建物や洋服や外見の描写がなされるが、映像ではこうしたものは一瞬である。
ところが屋根の形やスカートや襟元の形は、一瞬でわかったとしても、それをきちんと目に留めなければ、そのまま流れていってしまう。屋根の形など、説明がなければ、わたしたちは見流してしまう。
本のなかで「スレート葺きのコロニアル様式」とあってもどんな形かわからないけれど、辞書を引いたり、イメージ検索を使ったり、あるいはその部分の描写を丁寧に読んだりして、なんとかイメージをつかもうと、頭を働かせる。
けれども映像では、たとえ屋根がアップされたとしても、わたしたちは「屋根だ」とも思わず、せいぜい立派な家だな、という漠然とした印象を受けるだけだ。
本を読むためには、文字をひとかたまりの言葉としてとらえ、それを読み、理解し、筋を追う、複雑な行為が不可欠だ。
ところが映像であれば、ぼーっと見ているだけで、ある程度のことは伝わる。ところが、ぼーっと見ているだけでは、やはり、ほとんどは意識から洩れ落ちてしまうのだ。
本を読むときは、自分のペースで読む。
ほとんどの人が、読むものに応じてその速さはちがうだろう。
読み流して良いものは、さーっと目を走らせるだけ。なかなか理解できないものは、ほんとうに一語、一語、考えながら読み進む。
戻って確かめることもできる。
ところが映像は、自分のペースで見るわけにはいかないし、一瞬、一瞬で消えてしまう。
だから、映像化される場合には、かならずといっていいほど、ストーリーは単純化され、情報はずいぶん少なくなっているのだ。
たとえばむずかしい本の著者が講演をしたとする。その講演録のほうが、もともとの著作よりわかりやすいことのほうが多い。それは、聴衆を前にした講演は、単純化されているからだ。何が言いたいか、より鮮明になっているはずだ。そうでなければ、聞いている側は、おそらくはついていけない。
おそらく、映像は、話を単純化するのだ。
単純化、ということは、善悪でくくる、ということでもある。
以前、「報道の読み方」でも書いたのだけれど、報道というのはかならず出来事を原因-結果としてとらえるし、そこには「犯人」がいる。文字情報としての新聞でさえそうなのだから、それがTVとなると、一層の単純化がなされている、といっていい。事実、ワイドショーなどでは、初めから「犯人」が特定されている。
ところが現実は、そんなに単純なものではない。
ひとつの出来事をめぐって本が何冊も書けるほど、出来事というのは多種多様な側面を持つものなのだ。そうやってさえ、全貌をとらえることはできない。
まして、TVのワイドショーなどは、出来事をおそろしく単純化してしまっているのだ、と、くれぐれも心に留めておいたほうがいい。単純化というのは、そこからたくさんのことが落とされているのだ。そうして、落とすか、残すかの判断は、どこまでいっても送り手の恣意的な判断に拠っている。
「百聞は一見に如かず」というこの言葉は、きわめて限定的にしか成立しない言葉であるようにわたしには思われる。
突然、穴が出現する。誰かが隠れているのだろうか、と「おーい、でてこーい」と呼んでも、返事はない。石を投げてみても、底に届いた音がしない。そこでみんないろんなものをその穴に捨て始める。死体だの、廃棄物だの、ありとあらゆるものを捨ててしばらくしてから、上の方から「おーい、でてこーい」という呼び声がして、石が降ってくる……。
これを劇にしたものを、小学校のときの弟のクラスがやることになった。
台本を見せてもらったのだが、クラス全員にせりふが行き渡るように、町の人のせりふこそ増やしてあるけれど、ほぼ原作通りに進行する。ところが最後に、石が落ちたあとに「このあと、町の人たちが捨てたものが、あとからあとから降ってきたのでした」というナレーションがつけ加えられているのだ。
なんでこんないらないことをするんだろう、と腹が立った。そんな蛇足をつけてしまうと、原作のシャープなエンディングが台無しになってしまうじゃないか。
ともかくわたしは中学が休みだったか何かで、その劇の発表会を、母の代理で見に行ったのだった。
劇はつつがなく進行し、「おーい、でてこーい」という声がしたあと、石が落ちてきた。
そうして、幕が下りた。
わたしのまわりで、お母さんたちがざわざわとどよめいている。クエスチョンマークがあちこちで浮かんでいるのが見えるようだ。そこにナレーションが入った。
「ああ、そういうこと」と、あきらかにホッとした空気が流れたのだった。
ナレーションは、ショートショートを戯曲化したおそらく先生なのだろうけれど、そのつけたしは、完全に功を奏したのだった。
このとき、わたしは「本を読むこと」とそれを見ることにはちがいがあることを知ったのだった。
本を映像化したものをわたしたちは映画やドラマで見ることがあるけれど、本と、そうした映像とのあいだには、ずいぶん差がある。
たいていは主要な筋はそのままであるにしても、細かなエピソードなどはずいぶん落としてあることが多い。だから、本を読んで、映像化されたものを見ると、なんとなくスカスカになったような印象を受けることが多い。
それは、本で読むことにくらべて、映像の方がとらえにくいからなのではないだろうか。
よく百聞は一見に如かず、という。本では、ときには一ページ以上も費やして、建物や洋服や外見の描写がなされるが、映像ではこうしたものは一瞬である。
ところが屋根の形やスカートや襟元の形は、一瞬でわかったとしても、それをきちんと目に留めなければ、そのまま流れていってしまう。屋根の形など、説明がなければ、わたしたちは見流してしまう。
本のなかで「スレート葺きのコロニアル様式」とあってもどんな形かわからないけれど、辞書を引いたり、イメージ検索を使ったり、あるいはその部分の描写を丁寧に読んだりして、なんとかイメージをつかもうと、頭を働かせる。
けれども映像では、たとえ屋根がアップされたとしても、わたしたちは「屋根だ」とも思わず、せいぜい立派な家だな、という漠然とした印象を受けるだけだ。
本を読むためには、文字をひとかたまりの言葉としてとらえ、それを読み、理解し、筋を追う、複雑な行為が不可欠だ。
ところが映像であれば、ぼーっと見ているだけで、ある程度のことは伝わる。ところが、ぼーっと見ているだけでは、やはり、ほとんどは意識から洩れ落ちてしまうのだ。
本を読むときは、自分のペースで読む。
ほとんどの人が、読むものに応じてその速さはちがうだろう。
読み流して良いものは、さーっと目を走らせるだけ。なかなか理解できないものは、ほんとうに一語、一語、考えながら読み進む。
戻って確かめることもできる。
ところが映像は、自分のペースで見るわけにはいかないし、一瞬、一瞬で消えてしまう。
だから、映像化される場合には、かならずといっていいほど、ストーリーは単純化され、情報はずいぶん少なくなっているのだ。
たとえばむずかしい本の著者が講演をしたとする。その講演録のほうが、もともとの著作よりわかりやすいことのほうが多い。それは、聴衆を前にした講演は、単純化されているからだ。何が言いたいか、より鮮明になっているはずだ。そうでなければ、聞いている側は、おそらくはついていけない。
おそらく、映像は、話を単純化するのだ。
単純化、ということは、善悪でくくる、ということでもある。
以前、「報道の読み方」でも書いたのだけれど、報道というのはかならず出来事を原因-結果としてとらえるし、そこには「犯人」がいる。文字情報としての新聞でさえそうなのだから、それがTVとなると、一層の単純化がなされている、といっていい。事実、ワイドショーなどでは、初めから「犯人」が特定されている。
ところが現実は、そんなに単純なものではない。
ひとつの出来事をめぐって本が何冊も書けるほど、出来事というのは多種多様な側面を持つものなのだ。そうやってさえ、全貌をとらえることはできない。
まして、TVのワイドショーなどは、出来事をおそろしく単純化してしまっているのだ、と、くれぐれも心に留めておいたほうがいい。単純化というのは、そこからたくさんのことが落とされているのだ。そうして、落とすか、残すかの判断は、どこまでいっても送り手の恣意的な判断に拠っている。
「百聞は一見に如かず」というこの言葉は、きわめて限定的にしか成立しない言葉であるようにわたしには思われる。