陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

苦労は買ってでもしろ、というけれど

2007-02-20 22:27:17 | weblog
このあいだ、新聞を見ていたら、つい「悩み相談」に目が留まって読んでしまった。

相談者は四十二歳の女性(主婦)で、これまでさしたる苦労もせずに生きてきたけれど、これから大きな不幸が降りかかってきたときに耐えられる精神力があるかどうか自信がないから、いまから少しずつ苦労に慣れておいた方がいいのだろうか、「はしかと同じように、苦労も年齢が進むほどダメージが大きいと思いますが……」(2007年2月16日付け 朝日新聞)というもので、なんとなく相談者のずれっぷりがおかしくなって笑ってしまったのだった。

回答者の室井佑月は苛立ちを隠せないようすで「『世の中には大変な人たちもいるのね、自分は違うけど』。あなたのいっていることには、そんな選民意識の高いイヤらしさを感じざるを得ない」と書いていたけれど、まあ、何を言ってもわからない人にはわからないわけで、これがでっちあげたものでないのだとしたら、相談者の方はいったい自分がなぜ怒られているのか、見当もつかないだろう。

逆にこういう人が「幸福」と思うのはどんなことなのだろう、と聞いてみたくなったりもする。
たとえば親の/配偶者の年収であるとか、学歴・職歴であるとか、全部、数値と名詞で説明できる自分の外側のモノサシなんじゃないのだろうか。そうして、その外側の規準には「平均値」のところに赤い印がついていて、ああ、自分はだいたいどれもその上をいっている、だからシアワセなんだ、って、そんな雑な感じ方しかできないのではないだろうか、と思ってしまうのだ。

「苦労」というのは、結局は、いまの自分では対処できないことに対処するよう求められる、ということだ。いまのままでは対処できないから、なんとか「いまの自分」を作りかえることで、それに応えなくてはならない。うまくいくこともあれば、いかないこともあるけれど、どちらにしても、「いまの自分」という限界をつきつけられ、そこを乗り越えようとする試みであることには変わりはない。
もちろん外から求められるばかりでなく、自分から進んで限界を乗り越えていこうとすることもある。こういうときはあまり「苦労」とは言わない、やはり「苦労」というと、外から強いられるものという側面はどうしてもあるから、必然的に、そのときはつらいことでもある。

自分を作りかえるというのは、実際、並大抵のことではないし、うまくいかないことも多いし、また、時間だってかかる。
だからこそ、「苦労」の記憶はその時期をうまく乗り越えられることができさえすれば、充実感をもって振り返ることができるのだし、他人の苦労話は、関係のない人間にとっては、どうしても自慢話に聞こえてしまう側面を持つ。

苦労をしたことがない、というのは、つまりはその人の限界を超えるように求められたこともなければ、自分から求めていったこともない、ということで、つまりはその人がどこかで大きく成長したり、何かを克服した、という経験がない、と、自分から認めているわけだ。
それでも、何かひとつでも真剣にやろうとしたことがある人なら、まちがってもそんなことは言えないのではないだろうか。

年末にやった件の「陰陽師的2007年占い」でも書いたのだけれど、わたしは「幸福な出来事」や「不幸な出来事」というものがあるとは思わない。自分自身に起こる出来事でも、それが幸福か不幸かということなど何とも言いがたいし、そのときはどれほどつらい出来事であっても、そこから何かを学び、生みだすことができるなら、その人にとってはきわめて大きな意味を持つ。それを「幸福か不幸か」とレッテルを貼ることに、何の意味もないと思うからだ。

苦労は不幸を意味しないし、かといって、逆に、苦労の経験がないことが不幸であるとも思わない。その人がどう感じるか、というだけだ。

失敗した経験は、その人が届かないことをやってみようとした経験でもある。
届かない思いは、たとえ届かなかったとしても、それだけの人に会えた、という経験でもある。
問題は、その経験を通して、その人が何を感じるかということであり、そこから何を引き出し、自分のなかに意味づけていくということだ。

苦労というものは、その女性が考えるように、来るべき「不幸」に備えて、少しずつ体を慣らしておく免疫ではないだろう。
それにしても、その人はふだんから周囲に無自覚にそんなことを言って、あの人はああいう人だからしょうがない、という目で見られているのかもしれない。そういうのはわたしから見たら、かなりキツイ事態のように思えるのだけれど。

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