陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

日付のある歌詞カード Layla(エリック・クラプトン)

2007-02-01 22:51:53 | 翻訳
日付のある歌詞カード #Layla(いとしのレイラ)
~行き場のない思いとそれを見ている自分と


カッコいい曲といってわたしがまず思い浮かべるのは、デレク・アンド・ドミノスの「いとしのレイラ」だ。この冒頭部のリフ、♪ラドレファレドレー というギターの繰りかえし、それに覆いかぶさるように応える♪ソーファーミードーレー というもう一本のギターの音、これを聴いていると、カッコよさ、というのは、シンプルな力強さの別の言い方なんだな、ということがよくわかる。
小学生に聴かせたって、やっぱり「カッコイイ」と賛成してくれる。ただこの小学生はイエスの“ロンリー・ハート”がお気に入りで、“おう、おう、おんりーはー”とサビの部分だけ歌っている子なのだけれど。

* * *

Lyla(いとしのレイラ)


What'll you do when you get lonely
And nobody's waiting by your side?
You've been running and hiding much too long.
You know it's just your foolish pride.

 ひとりぼっちの気分になったときはどうするつもりなんだ
 だれもそばにはいないんだぜ?
 ずっと逃げ隠れしてるけど
 そんなのは君のちっぽけなプライドじゃないか

Layla, you've got me on my knees.
Layla, I'm begging, darling please.
Layla, darling won't you ease my worried mind.

 レイラ、君に跪くよ
 レイラ、お願いだ
 レイラ、惑う思いをなんとか楽にしてほしいんだ

I tried to give you consolation
When your old man had let you down.
Like a fool, I fell in love with you,
Turned my whole world upside down.

 なぐさめてあげようと思ったんだ
 きみの男がきみを落ちこませたときにさ
 バカみたいにオレは君に惚れちまって
 世界はひっくりかえってしまった

Layla, you've got me on my knees.
Layla, I'm begging, darling please.
Layla, darling won't you ease my worried mind.

 レイラ、君に跪くよ
 レイラ、お願いだ
 レイラ、惑う思いをなんとか楽にしてほしいんだ

Let's make the best of the situation
Before I finally go insane.
Please don't say we'll never find a way
And tell me all my love's in vain.

 一番いい状態を考えよう
 オレがどうにかなっちまう前に
 どうにもならない、なんて言っちゃダメだ
 オレの愛がムダだなんて言わないでくれ

* * *

インストゥルメンタルの曲が好きだ。
どういうわけかアルバムにたいがい一曲ほどおさめられているインストゥルメンタルが、一番好きになってしまうことが多いのだ。
ラッシュの《ムーヴィング・ピクチャーズ》だって、"XYZ" が一番好きだし、ドリーム・シアターの《アウェイク》も“エロトマニア”が好き。
だったら最初からインスト物を聴けばいいのだけれど、歌があるなかの一曲だからそれが好きになってしまうのかもしれない。

曲のなかのギターソロ、あるいはキーボードのソロというのは、どれだけすばらしくても、なんとなくとってつけたような感じがするのが否めない。
曲に彩りを添えるもの、きれいな額縁のような、美しい背景のような。もちろんそれが一体となって構成されていればほんとうにすばらしいのだけれど(たとえばラッシュの“ルージング・イット”のエレクトリック・ヴァイオリンのソロのように)、かならずしも歌の内容とは無関係に、プレイヤーのテクニックを披露する、幕の内弁当のなかの「鶏の唐揚げ」とか「エビの煮物」のような感じに思えてしまう。

ソロと歌が一体となった、というと、やはり思いだすのがこの「レイラ」だ。
ボロボロになって、レイラ、レイラ、と相手の名前を呼ぶことしかできないような状態がそのまま、ソロになったような、ギターソロだ。

恋愛感情っていうのは、根本的にはたったひとりの相手を、社会全体から切り離し、その相手と一対一の関係を築いていこうとするものだから、本質的に反社会的な感情だ。そういうものを社会の側が飼い慣らそうとして、さまざまな制度を設け、一定の年齢だけに許されるようなものにしてしまった。そういう年代を踏み越えて恋愛でもしたことなら、たちまち「いい年をして」と白い目で見られたり、叩かれたりする。
人を好きになることなんて、社会的なモノサシでいくと、いいものでもなんでもない。

それでも、人はやっぱりだれかを好きになってしまう。
いまある自分を超えようとして。
日常を超えようとして。
ここにはいられない、いまの自分ではいられない、というどうしようもない、狂気に近い感情が、人を恋愛に駆り立てるのだろう。

一定の条件に当てはまらなければ、まわりからは叩かれる。
どうかしているのだ、一時的な気の病だと言われる。
だからクラプトンはどうしようもない感情をそのまま歌にして、ギターを弾いた。
だからこのアルバムにはほかのアルバムには聴くことのできない、切実な、出さなければ死んでしまう、とでもいいたげな音がある。

ところがこれはその思いのたけをぶつけただけでできるか、曲になるかというと、そうはいかない。
詞にはなるかもしれない。それでも、曲を作り、演奏するためには、思い惑い、狂気の瀬戸際に立ち、社会に背を向けようとする自分を、冷徹に見ている「俯瞰する目」が不可欠なのだ。狂気を狂気として演奏するには、それをコントロールする冷静な意志力がなくてはならない。

恋愛に溺れ、おそらく薬物にも浸り、そういうなかで、逆にそれを駆動力としながら曲を完成させていく。綱渡りのような、ギリギリの音がここにはある。