陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サイト更新しました

2007-02-25 09:21:11 | weblog
先日までここで連載していたH.G.ウェルズの「水晶の卵」、推敲ののちサイトにアップしました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html

日付が昨日になってるんですが、それはあらかたできてたんだけど、何箇所か気に入らなくてやり直してたら、眠くなった(笑)ということです。
今朝改めて修正して、なんとかアップしました。

ところでね、「水晶の卵」なんですが、いったいどういう仕組みになっているんでしょう。
or else that it had some peculiar relation of sympathy with another and exactly similar crystal in this other world, so that what was seen in the interior of the one in this world, was, under suitable conditions, visible to an observer in the corresponding crystal in the other world; and vice versa. At present, indeed, we do not know of any way in which two crystals could so come en rapport, but nowadays we know enough to understand that the thing is not altogether impossible. This view of the crystals as en rapport was the supposition that occurred to Mr. Wace, and to me at least it seems extremely plausible. . .

これが原文で、わたしはこの部分を
となるともうひとつの推理だが、それぞれ別の世界にある、互いにそっくりなふたつの水晶のあいだには、何か特殊な共鳴関係があって、こちらの水晶の内部に見えるものは、相応の条件のもとでは、これと対の別の世界の水晶の観察者にも見えているのではないか、というもの。当然、逆もまた同様であろう。目下のところ、実際、ふたつの水晶がどこまで「共鳴」しあうものか、わたしたちに理解するすべはないが、そういうことがまったく不可能ではないと考えても良いのではあるまいか。ふたつの水晶の「共鳴」という推論を立てたのはウェイス氏だったが、わたしには、少なくともそれはきわめてもっともらしいことのように思われるのだ……。

としました。「共鳴」というふうにカッコにいれたのは、この部分原文でフランス語「en rapport」が当てられているからなんですが。

ブログの頃は「感応」としていたのですが、「共鳴」のほうがいいかなあ、共鳴というと、やっぱり音みたいになるから感応のほうがいいんだろうか。

受信機と送信機が一体となったシステムを想像したらいいんでしょうか。
とにかくよくわからないんですが。
なにか意見、思いついたことがあったら、どうかぜひ聞かせてくださいね。

たぶん、今日の夜はもういちど、更新すると思います。
だからまた遊びにきてみてください。
それじゃ、また。

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2 コメント

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絡み合い効果 (helleborus)
2007-02-25 12:05:33
こんにちは。

> なにか意見、思いついたことがあったら、どうかぜひ聞かせてくださいね。

私がこれ(ブログ連載版)を読んで思ったのは、かつて『心は量子で語れるか』(ロジャーペンローズ著 BLUEBACKS)の中で読んだ、量子の「絡み合い効果」というやつです。興味本位で手にしただけで専門的なことはまったくわかっていないのですが、あげた立場上簡単な説明を試みてみますと――
もと一体だったもの、たとえば卵を黄身と白身に分離して、互いに離れたところへもっていったと。そのとき、黄身と白身はそれそれ独立した存在であるはずなのに、片方の黄身を溶くと、もとペアだった白身も泡立ちはじめる、といったようなもので、実験によって奇妙な現象が観察されたミステリアスです。

通信手段をもたないはずの二者が説明のつかない交信をするというのは、愛する人が不慮の死に遭った瞬間に、遺された者にピンと空気が裏返るような感覚が伝わる、というようなシーンとしてドラマ等に頻出していますが、あれは本当だったんだ!と思うような事実が非常に小さな世界を覗く実験で確認されているようなのです。
しかし「絡み合い」はちょっと濃ゆいですね。共鳴よりも感応の方が、まだいいかなという気がします。感応の方がミステリアスな香りがあって。

ところで本当にこんな風に、裏になんの通信経路も持たないリアルタイムの火星ライブカメラみたいなのがあると、現在の物理学は根底から崩れてしまうそうです。映像が映るということは取り決めさえすれば通信が可能になり、そうすると光よりも速く信号が送れることになり、それは受け入れ難いのだと。
そう考えると、この話が結局、相手方とコミュニケーションをとるまでに至らなかったところに妙なリアリティがありますね。
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遠隔感応能力 (陰陽師)
2007-02-28 07:17:36
helleborusさんおはようございます。
返事が遅れてごめんなさい。
しばらくいろんな本をあちこち探して「感応」にするか「共鳴」にするか考えてたんです。
それで、結局「感応」に戻しました。

「感応」を辞書で引くと
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【感応】
#心に感じこたえること。奥の細道「此神社にて侍ると聞けば、―殊にしきりに」
#信心が神仏の霊に通ずること。平治「澄憲説法には竜神も―を垂れ」
#〔電〕誘導#に同じ。
[広辞苑 第四版]
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となって、あまり物理学的なタームで使う言葉ではない。「誘導」の古い言い方、なんて出てきます。
それに対して「共鳴」は
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【共鳴】
#〔理〕(resonance) 物理系が外部からの刺激で固有振動を始めること。特に刺激が固有振動数に近い振動数を持つ場合を指す。
#ポーリングが提唱した、分子の化学構造についての概念。
#転じて、他人の思想や意見に同感の念を起すこと。
[広辞苑 第四版]
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基本は物理学的なタームです。

広辞苑も「共鳴」の英語にresonance を当てている。

さて、原文は"relation of sympathy" なんですが、この"sympathy" 辞書で引いてみると
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sym・pa・thy
#n
1 同情, 思いやり, あわれみ; [Opl] 弔慰, 悔やみ, 慰問〈with〉.
2a [Opl] 同感, 共鳴, 賛成, 好感, 承認 (opp. antipathy); 【心】 共感.
b 感応(性); 【生理】 交感, 共感; 【理】 共振, 共鳴.
3 調和, 融和, 一致〈with〉.
[Gk=fellow feeling (sym-, PATHOS)]

[株式会社研究社 リーダーズ英和辞典第2版]
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となる。
元になったギリシャ語が、「共に」とか「同時に」とか「似た」の意の syn と、カタカナ語にもなっているパトス、情念なんていうふうに訳されたりもするけれど、基本的にあるのは、永遠に対する刹那的な感情、つまりは苦しみとか憐れみとか、そんなニュアンスの言葉です。

やっぱり語感からいくと、「感応」の方が近いかな、とまず思った。

それから、「感応」というタームがよく出てくる文献となると、テレパシーなんですね。ここにも語尾 -pathy が出てくるけど。

テレパシーという言葉を最初に使いだしたのは、ほぼウェルズと同時代のF.W.H.マイヤーズ、この人はイギリス心霊研究協会の人でした。イギリス心霊研究協会っていうと、なんとなくいかがわしい団体みたいだけど設立に当たったのは、ケンブリッジの教授たち。そういうものを科学として扱おうとした時期でもあったんでしょう。
"Telepathy" (語幹 tele- は「遠くの」を意味します。ほら、電話もテレフォンっていう)という用語をマイヤーズが使い始めたのが1882年とあったから、『水晶の卵』を書いた時期のウェルズはすでに知っていたとしても不思議はありません。

やはり漠然とウェルズが思い描いていたのも一種のテレパシーのようなものだったのだろうか。まあそんなことを考えて、結局「感応」に落ちついたんです。

> 通信手段をもたないはずの二者が説明のつかない交信をするというのは、愛する人が不慮の死に遭った瞬間に、遺された者にピンと空気が裏返るような感覚が伝わる、というようなシーンとしてドラマ等に頻出していますが、あれは本当だったんだ!と思うような事実が非常に小さな世界を覗く実験で確認されているようなのです。

これは興味深い話です。
わたしも何度か書いているのですが、わたしの母は小さい頃に母親を亡くしている。その日、学校に行っていたらしいのですが、はっきりと、いま母親が亡くなった、という瞬間がわかったのだそうです。
これは繰りかえしそう言っていて、自分はそうしたものがわかるのだ、が口癖でした。
一種の遠隔感応能力とでもいうんでしょうか、そういうものが自分には備わっていると、いまでも思ってるんじゃないかしら。

ところがそれがかならずしも当たっているわけではないんです。一度など、わたしが大学に入ってしばらくして、お祖母さんが夢枕に現れて、わたしがいま大変なことになっているので、すぐ家に戻ってこさせなさい、とお告げをして、わたしも大変な思いをしたことがあります。もちろんそれに対応するような事実なんてなかったから。

わたし自身はそんな劇的な経験をしたことはないのですが、ただ、そういうことは起こっても不思議はないと思います。ただ、わたしたちがそれに対応する認知的な枠組みを持っていないから、説明できなかったり、ごくまれにしか経験されなかったりするようなことはきっといくらでもあるんだろう、って。

小関智弘の町工場関連の本を読んでいると、人間の感覚がどれくらい鋭いものなのか、いつも驚かされるのですが、現実に、数値にするとものすごく微妙な差異をわたしたちは日常的に感じ取っている。その差異のなかに、現在のわたしたちでは認識できないような領域もあると思うんです。

ただ、それを一種の固定的なものとして「わたしにはわかる」みたいに思っちゃうのはちがうんじゃないかな、とは思います。

そういえば、知り合いの子供で二卵性双生児がいるんですが、この子たちはユニゾンでしゃべる。どちらかがどちらに合わせるのではなしに、ふたりで声を揃えて「お母さん、あのね、今日学校でね」とべらべらしゃべるんです。これなんかも一種の「感応」の例なんじゃないか、と思います。
そこの家の子はおもしろくてね、AちゃんBちゃんっていたとして、お母さんが台所に入ってきたAちゃんに、ゴハンだから呼んできて、と頼むと、たまに、二階に向かって「A~、ゴハンだってよ~」と自分の名前をうっかりまちがえて呼んだりするそうなんです。ごくたまに、相手のことをうっかり自分の名前で呼んだりする。ところが逆は絶対ないんですって。双子っていうのも、こうやってみると不思議な存在ですよね。

おもしろい本の紹介ありがとうございました。
ペンローズは以前から気になってたんです。今度また読んでみますね。

書きこみありがとうございました。
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