ときどき思うのだけれど、わたしたちは日頃、「不信感」とか「信じられない」などという言葉を、比較的気軽に使ってしまっているのではないだろうか。
「わたしたち」といま書いたけれど、少なくとも、過去にわたしはそういう言葉をごく軽く口にしてしまって、大騒ぎを引き起こしてしまったことがあるのだ。
その昔、英会話スクールでバイトをしていたころ。教えることはうまいし、日本語もうまい、生徒の気持をつかむのもうまい、その反面、おそらく自分でも教えることに自信があったのだろう、いつも決まって時間に遅れる講師がいた。
学校の授業なら、先生が遅刻して来ようが、生徒・学生たちはまったくかまわないのだけれど、英会話スクールともなると、授業一時間あたりいくら払っているかは明白なので、遅刻は嫌われる。その苦情の矢面に立つのもいいかげんうんざりしたわたしは、いつものように、今度から気をつけるよ、という相手に、
――あなたの「今度」はもう何度も聞いた。あなたのことはもう信じられない( I can't trust you.)
と言ったのである。
すると、相手の顔色が変わった。君はぼくのことが信頼できないというんだね、と聞き返す。それがどういうことなのかもよくわからないまま、わたしは自分が言ったことを繰りかえした。
さて、それからが大変だった。さまざまな講師からなんでそんなことを言った、と聞かれるし、しまいには経営者、当該講師を含めて三者面談ということになってしまった。
そこでわかったのは、自分が意図したことをはるかに超える、重い言葉を口にした、ということだった。遅刻をとがめたりするような脈絡で使ってはならない言葉だったのだ。
さまざまな人から言われたことを総合すると、trust というのは、絶対的な信頼、無条件の信頼であるというとだ。
そうして、日本語でも「信頼」ということは、あらゆる人間関係の土台となるものであることには変わりはない。相手に寄せる信頼の度合いに応じて、その関係は緊密にもなれば、深くもなる。信頼ができない相手なら、もはやいかなる関係を築くこともできない。
「あなたを信頼できない」というのは、共に働くことができない、ということであり、結局は、あなたとはいかなる関係も築けない、ということにほかならない。
自分が言ったのはそういうことであると理解していたのか。「信頼」という言葉を、無自覚に、不用意に、使ってしまったのではないか。
わたしはそのときに、trust という言葉の重さを知り、そこから日本語の「信頼」という言葉の重さを知ったのだった。
となると、この人間関係の土台となる信頼を、どう築いていったらいいのだろう。
まず誰かに信頼してほしいとき、わたしたちはどうするだろう。
ひとつの考え方として、相手に対して自分の一切をさらけ出すということがある。
相手に対して秘密を持たない。自分の過去も、失敗も、恥ずかしいことも、一切を打ちあける。
けれど、これが果たして「信頼」ということに通じていくのだろうか。
トバイアス・ウルフのベトナム戦争を題材にした短編集『危機一髪』のなかに、「民間人に戻って」というものがある。主人公は、ベトナムでのひどい経験を、どうやって話したものかとまどう。残念がっているように話したらいいのか。それでもひどくうそっぽく聞こえる。クールな調子でやってみると、もっと真実味に欠けてしまう。
ウルフの主人公は、だから笑い話に仕立て上げた。笑い話としてしか、相手と共有できなかったから。聞いた相手は、テーブルに額をゴンゴンうちつけて、それで終わった。
自分自身の過去のできごとをうちあけることと、信頼関係を築こうとすることは、かならずしもどちらかがどちらかの必要条件ではないように思うのだ。
長田弘はそのことをこんなふうに言っている。
秘密を告白しあうのではなしに、だれもがそれぞれに秘密を抱いている存在として、それを尊重する、ということが、逆に信頼ということになっていくのではないか。
つまりそれは、相手を自分とは異なる他者として尊重するということだ。
言ってみればそのあたりまえのことが、信頼の第一歩ではないのか。そうして、そこから時間をかけて積み重ねていくしかないのではないか。
けれど、やっぱりわたしはこんなふうに思う。
本当に信頼している相手には、「あなたを信頼している」などと、言う必要もないのだ。
ただ、信頼し、相手の行動を尊重するでいい。
それが育っていくか、どうなるかなんてあらゆる先のことがわからないのと同様、誰にもわかるものではない。
それでも、信頼できる相手と出会えただけで、十分にすばらしいことではないのだろうか。
「わたしたち」といま書いたけれど、少なくとも、過去にわたしはそういう言葉をごく軽く口にしてしまって、大騒ぎを引き起こしてしまったことがあるのだ。
その昔、英会話スクールでバイトをしていたころ。教えることはうまいし、日本語もうまい、生徒の気持をつかむのもうまい、その反面、おそらく自分でも教えることに自信があったのだろう、いつも決まって時間に遅れる講師がいた。
学校の授業なら、先生が遅刻して来ようが、生徒・学生たちはまったくかまわないのだけれど、英会話スクールともなると、授業一時間あたりいくら払っているかは明白なので、遅刻は嫌われる。その苦情の矢面に立つのもいいかげんうんざりしたわたしは、いつものように、今度から気をつけるよ、という相手に、
――あなたの「今度」はもう何度も聞いた。あなたのことはもう信じられない( I can't trust you.)
と言ったのである。
すると、相手の顔色が変わった。君はぼくのことが信頼できないというんだね、と聞き返す。それがどういうことなのかもよくわからないまま、わたしは自分が言ったことを繰りかえした。
さて、それからが大変だった。さまざまな講師からなんでそんなことを言った、と聞かれるし、しまいには経営者、当該講師を含めて三者面談ということになってしまった。
そこでわかったのは、自分が意図したことをはるかに超える、重い言葉を口にした、ということだった。遅刻をとがめたりするような脈絡で使ってはならない言葉だったのだ。
さまざまな人から言われたことを総合すると、trust というのは、絶対的な信頼、無条件の信頼であるというとだ。
そうして、日本語でも「信頼」ということは、あらゆる人間関係の土台となるものであることには変わりはない。相手に寄せる信頼の度合いに応じて、その関係は緊密にもなれば、深くもなる。信頼ができない相手なら、もはやいかなる関係を築くこともできない。
「あなたを信頼できない」というのは、共に働くことができない、ということであり、結局は、あなたとはいかなる関係も築けない、ということにほかならない。
自分が言ったのはそういうことであると理解していたのか。「信頼」という言葉を、無自覚に、不用意に、使ってしまったのではないか。
わたしはそのときに、trust という言葉の重さを知り、そこから日本語の「信頼」という言葉の重さを知ったのだった。
となると、この人間関係の土台となる信頼を、どう築いていったらいいのだろう。
まず誰かに信頼してほしいとき、わたしたちはどうするだろう。
ひとつの考え方として、相手に対して自分の一切をさらけ出すということがある。
相手に対して秘密を持たない。自分の過去も、失敗も、恥ずかしいことも、一切を打ちあける。
けれど、これが果たして「信頼」ということに通じていくのだろうか。
トバイアス・ウルフのベトナム戦争を題材にした短編集『危機一髪』のなかに、「民間人に戻って」というものがある。主人公は、ベトナムでのひどい経験を、どうやって話したものかとまどう。残念がっているように話したらいいのか。それでもひどくうそっぽく聞こえる。クールな調子でやってみると、もっと真実味に欠けてしまう。
ああいうひどい話は、どう語ればいいものか。たぶん初めから持ち出さないほうがよかったのだ。でもいつかは話すことになるだろう。しかし、口を開いたとたん、問題がぞろぞろ出てくる。記憶の問題、声の調子の問題、そして道徳的な問題。いま、過去の自分にどういう道徳的な判断を下せるというのだろう。もう過去の状況から抜け出し、その当時の恐怖心や欲望から解放されているというのに。過去の自分をほとんど思いだすことさえできないのに。一方、過去の自分に対する道徳的な判断を良心のとがめなく避けることなど、どうしてできよう。しかし、告白するという行為そのもののなかには、自分の非を認めてそれを告白するおれの潔さを見てくれ、という鼻持ちならぬ虚栄心が働いているのではないか。他人の家を崩壊させたことを深く後悔し、後悔していることを人に褒めてもらいたがる典型的なアメリカン・ボーイの態度ではないか。結局のところ、だれも相手にしてくれないのではないか。だれも耳を貸してくれないのではないか。だいいち、おれは聞き手になにを与える義務があるのか。どの聞き手にそんな義務を果たさなければならないんだ?トバイアス・ウルフ『危機一髪』(飛田茂雄訳 彩流社)
ウルフの主人公は、だから笑い話に仕立て上げた。笑い話としてしか、相手と共有できなかったから。聞いた相手は、テーブルに額をゴンゴンうちつけて、それで終わった。
自分自身の過去のできごとをうちあけることと、信頼関係を築こうとすることは、かならずしもどちらかがどちらかの必要条件ではないように思うのだ。
長田弘はそのことをこんなふうに言っている。
親しい仲にも秘密がある。ひとの秘密には手をふれてはいけないのだ。それが生まれそだったゆきどまりのちいさな路地のおしえてくれた、ひとの暮らしの礼儀だった。
ひとはひとに言えない秘密を、どこかに抱いて暮らしている。それはたいした秘密ではないかもしれない。秘密というよりは、傷つけられた夢というほうが、正しいかもしれない。けれども、秘密を秘密としてもつことで、ひとは日々の暮らしを明るくこらえる力を、そこから抽きだしてくるのだ。長田弘『記憶のつくり方』(晶文社)
秘密を告白しあうのではなしに、だれもがそれぞれに秘密を抱いている存在として、それを尊重する、ということが、逆に信頼ということになっていくのではないか。
つまりそれは、相手を自分とは異なる他者として尊重するということだ。
言ってみればそのあたりまえのことが、信頼の第一歩ではないのか。そうして、そこから時間をかけて積み重ねていくしかないのではないか。
けれど、やっぱりわたしはこんなふうに思う。
本当に信頼している相手には、「あなたを信頼している」などと、言う必要もないのだ。
ただ、信頼し、相手の行動を尊重するでいい。
それが育っていくか、どうなるかなんてあらゆる先のことがわからないのと同様、誰にもわかるものではない。
それでも、信頼できる相手と出会えただけで、十分にすばらしいことではないのだろうか。