「水晶の卵」その4.
当時、彼の体調がことのほか悪いころで――この体験はすべて、体調が悪い方に向かっているときであったことは、留意しておくべきであろう――、加えて妻や血の繋がらない子供たちから、無視されたり、さらにはひどい仕打ちまで受けていて、あきらかに抑鬱状態にあったのである。妻は見栄っ張りで浪費家、冷たく、さらには隠れて酒を飲むようになってきていた。義理の娘は意地が悪く、しかもうぬぼれがひどい、息子の方は反抗的で、ことあるごとに楯突くのだった。資金繰りもきびしく、ミスター・ウェイスの見たところ、ひどく泥酔するようなことがまったくないわけでもなさそうだった。生まれは恵まれた環境で、立派な教育も受けてはいたのだが、当時、何週間にも渡る憂鬱状態と不眠とに苦しんでいたのだった。妻を起こさないようにそっと、かたわらから抜けだし、やりきれない思いを抱えて、家の中を歩き回る。そうして八月の終わり、午前三時頃、ふと店に入っていったのだった。
薄汚れて狭い店は、あやめもつかぬ闇一色ではあったが、一箇所だけ、ひどく明るく光っている。近くへ行ってみると、水晶の卵が、窓の手前のカウンターの隅に立っていたのだった。シャッターの隙間から差しこんだ細い一筋の光が水晶に当たって、卵の内部全体を光で満たしているようだった。
ミスター・ケイヴの頭に、これは昔習った光学の法則と一致しないじゃないか、ということが浮かんだ。光線が水晶に当たって屈折し、その内部で焦点を結ぶというのなら納得もいくが、このように拡散するのは、自分の物理学的概念では説明がつかない。水晶のそばへいって、のぞいたり、周囲を回ってみたりしながら、若き日々、現在の職業を選択させることになった科学的好奇心が、一時的によみがえったのだった。驚いたのは、光は安定したものではなく、卵を形づくっている物質の内部で、身をよじるように動いている。まるで卵形の内部は中空で、発光性の気体が入ってでもいるかのようだった。別の角度から見るとどうだろう、とあちこち移動しているうちに、不意に気がついたのは、水晶と光線あいだに自分が立ちふさがっても、水晶の光はいささかも弱くならないことだった。これにはたいそう驚いて、水晶を光線が差しこむ場所から、店の一番暗い場所に移してみた。すると、四、五分は明るいままだったが、徐々に光は消えていった。日の光が細く差しこむ場所に戻してやると、光は即座に回復した。
少なくともそこまでは、ミスター・ウェイスも、ミスター・ケイヴの常識外れの話も実証することは可能だった。自分でも繰りかえし、光線を当ててみた(光線は直径1mm1m以下でなければならなかった)。そうして完全な暗闇のなかでは、たとえばヴェルヴェットでくるむなどしてやれば、水晶は実際にまぎれもなく微かなリン光を発するのだった。しかしながらその発光は、通常のものとは異なるたぐいのもので、だれの目にも等しく見えるわけではないのである。というのも、ミスター・ハービンジャー、氏の名前はパスツール研究所の関連で、科学に興味のある読者にはおなじみであろうが、彼の場合は、まったくどんな光も見て取ることはできなかった。また、ミスター・ウェイスでさえも、その光を感受する能力は、ミスター・ケイヴにくらべればはるかに低いものであった。ミスター・ケイヴでさえ、能力にはかなりのばらつきがあった。一番はっきりと見えるのは、極度に衰弱して疲労の極にあるときだったのである。
さて、最初からこの水晶の光は、ミスター・ケイヴにはあらがいがたい魅力を放つものだった。孤独な魂にとっては、一冊の感動的な書物を超えて、深く語りかけるものがあったのだ。そのために自分が観察しているもののことはだれにも打ちあけたことはなかった。これまでずっと、しみったれた悪意に囲まれて生きてきた彼が、何かしらの楽しみを持っていることが明らかになれば、失ってしまう危険が少なからずあったのだ。夜が明けてくるにつれて、光の拡散量が増えれば増えるほど、水晶はあらゆる面で発光性を失っていく。しばらくのあいだは、夜間の、店の暗い一隅でなければ、水晶の中には何も見ることができなかった。
だが、ヴェルヴェットの布を使えば――鉱物の標本の裏張りに使っていることからそれを思いついたのである――、さらに二重にして自分の頭から手にかけて、すっぽりとかぶってしまえば、昼間でも水晶の内部で光の動きを見ることができるのだった。妻に見つからないよう、注意を怠らず、この実験は、午後、妻が二階で昼寝をしているあいだだけ、カウンター下の引っこんだところで用心深くおこなったのである。そんなある日、水晶を手の中で回転させていると、何かが目をとらえた。閃光のように現れては消えてしまったのだが、彼の目には、水晶の内部に、ひろびろとした見知らぬ大地の光景が、一瞬、拡がったように映ったのである。もういちど回してみると、光が消える瞬間に、また同じ光景が見えたのだった。
さて、ミスター・ケイヴの発見を逐一記述することは、退屈でもあるだろうし不必要なことでもある。要点のみを述べるに留めよう。すなわち水晶は、照射光線から約137度の角度で注視するならば、ひろびろと開けた風変わりな地方の鮮明な光景を、いかなる場合でも映し出すのである。それは決して夢のようなあやふやなものではなかった。実在するものの確かな印象がそこにはあり、光が適切であればあるほど、一層ほんものらしく、また確かなもののように思えるのだった。同時に、動く絵でもあった。つまり、そのなかにある物体のいくつかが動いている、ゆっくりとではあるが、実在のもののように、規則的なふるまいをしているのだった。光線の角度が変化したり、見る角度が変わったりすれば、それに従って、情景も変化した。確かに、卵形のガラスを通して風景を眺めていたとして、ガラスを回転させたなら、ちがう角度からの風景が見えてくるにちがいない。
ミスター・ウェイスはわたしに請け合ったのだが、ミスター・ケイヴの話は微に入り細に入りのもので、幻覚からくる印象に特有の感情的な特徴は一切なかった、ということだった。だが、このことは忘れないでいただきたいのだが、ミスター・ウェイスがあらゆる手を尽くして、水晶の微かな乳白色の光のなかに同じようにはっきりしたものを見ようとしても、ことごとくが不首尾に終わったのである。ふたりが受けた印象の強さにはずいぶんの差があり、ミスター・ケイヴの目に風景と見えたものが、ミスター・ウェイスには、はっきりとしな星雲のようにしか見えなかったのである。
ミスター・ケイヴの説明によれば、その光景は決まって広大な平原で、いつもその場所をかなり高いところ、塔とかマストのてっぺんのような位置から眺めているらしかった。平原の東と西は、はるか彼方、そびえ立つ巨大な赤土の絶壁が境界を作っている。その絶壁は、かつて見たことのある何かの絵を思いだしたのだが、それが何かまではミスター・ウェイスにも確かめられなかった。絶壁は南北に――方位は夜空に見える星をもとに判断できた――ほとんど無限の彼方まで遠近法に沿って伸びていき、二本の線が合わさる前に、かすんで見えなくなってしまっていた。ミスター・ケイヴがいるのは、東側の絶壁に近いあたりだった。最初に見たときは、太陽が絶壁の上を昇っていくところで、空に舞いあがる無数の姿、太陽の光を背にしたときには黒く、絶壁の影を背にしたときは白い姿が見えたので、あれは鳥なのだろうとミスター・ケイヴは考えた。眼下にはさまざまな建物が拡がっていた。自分はその鳥とおぼしきものを見おろしているらしかった。情景の端のぼやけて屈折したような場所に近づくと、姿ははっきりしなくなってしまった。奇妙なかたちの木、苔むしたような緑と美しい灰色の木が、広く、日に輝く運河沿いに続いている。なにか巨大であざやかな色のなにものかが、景色を横切るように飛んでいった。ミスター・ケイヴが最初にこの情景を見たのは、ほんの一瞬だったのだが、手はぶるぶる震え、頭はクラクラし、情景は現れたかと思うと消え、すぐに霧がかかったように、はっきりしなくなってしまった。そうして最初の時は、ひとたび情景の方向を失ってしまうと、もういちど見つけることはとんでもなく大変なことだった。
(この項つづく)
当時、彼の体調がことのほか悪いころで――この体験はすべて、体調が悪い方に向かっているときであったことは、留意しておくべきであろう――、加えて妻や血の繋がらない子供たちから、無視されたり、さらにはひどい仕打ちまで受けていて、あきらかに抑鬱状態にあったのである。妻は見栄っ張りで浪費家、冷たく、さらには隠れて酒を飲むようになってきていた。義理の娘は意地が悪く、しかもうぬぼれがひどい、息子の方は反抗的で、ことあるごとに楯突くのだった。資金繰りもきびしく、ミスター・ウェイスの見たところ、ひどく泥酔するようなことがまったくないわけでもなさそうだった。生まれは恵まれた環境で、立派な教育も受けてはいたのだが、当時、何週間にも渡る憂鬱状態と不眠とに苦しんでいたのだった。妻を起こさないようにそっと、かたわらから抜けだし、やりきれない思いを抱えて、家の中を歩き回る。そうして八月の終わり、午前三時頃、ふと店に入っていったのだった。
薄汚れて狭い店は、あやめもつかぬ闇一色ではあったが、一箇所だけ、ひどく明るく光っている。近くへ行ってみると、水晶の卵が、窓の手前のカウンターの隅に立っていたのだった。シャッターの隙間から差しこんだ細い一筋の光が水晶に当たって、卵の内部全体を光で満たしているようだった。
ミスター・ケイヴの頭に、これは昔習った光学の法則と一致しないじゃないか、ということが浮かんだ。光線が水晶に当たって屈折し、その内部で焦点を結ぶというのなら納得もいくが、このように拡散するのは、自分の物理学的概念では説明がつかない。水晶のそばへいって、のぞいたり、周囲を回ってみたりしながら、若き日々、現在の職業を選択させることになった科学的好奇心が、一時的によみがえったのだった。驚いたのは、光は安定したものではなく、卵を形づくっている物質の内部で、身をよじるように動いている。まるで卵形の内部は中空で、発光性の気体が入ってでもいるかのようだった。別の角度から見るとどうだろう、とあちこち移動しているうちに、不意に気がついたのは、水晶と光線あいだに自分が立ちふさがっても、水晶の光はいささかも弱くならないことだった。これにはたいそう驚いて、水晶を光線が差しこむ場所から、店の一番暗い場所に移してみた。すると、四、五分は明るいままだったが、徐々に光は消えていった。日の光が細く差しこむ場所に戻してやると、光は即座に回復した。
少なくともそこまでは、ミスター・ウェイスも、ミスター・ケイヴの常識外れの話も実証することは可能だった。自分でも繰りかえし、光線を当ててみた(光線は直径1mm1m以下でなければならなかった)。そうして完全な暗闇のなかでは、たとえばヴェルヴェットでくるむなどしてやれば、水晶は実際にまぎれもなく微かなリン光を発するのだった。しかしながらその発光は、通常のものとは異なるたぐいのもので、だれの目にも等しく見えるわけではないのである。というのも、ミスター・ハービンジャー、氏の名前はパスツール研究所の関連で、科学に興味のある読者にはおなじみであろうが、彼の場合は、まったくどんな光も見て取ることはできなかった。また、ミスター・ウェイスでさえも、その光を感受する能力は、ミスター・ケイヴにくらべればはるかに低いものであった。ミスター・ケイヴでさえ、能力にはかなりのばらつきがあった。一番はっきりと見えるのは、極度に衰弱して疲労の極にあるときだったのである。
さて、最初からこの水晶の光は、ミスター・ケイヴにはあらがいがたい魅力を放つものだった。孤独な魂にとっては、一冊の感動的な書物を超えて、深く語りかけるものがあったのだ。そのために自分が観察しているもののことはだれにも打ちあけたことはなかった。これまでずっと、しみったれた悪意に囲まれて生きてきた彼が、何かしらの楽しみを持っていることが明らかになれば、失ってしまう危険が少なからずあったのだ。夜が明けてくるにつれて、光の拡散量が増えれば増えるほど、水晶はあらゆる面で発光性を失っていく。しばらくのあいだは、夜間の、店の暗い一隅でなければ、水晶の中には何も見ることができなかった。
だが、ヴェルヴェットの布を使えば――鉱物の標本の裏張りに使っていることからそれを思いついたのである――、さらに二重にして自分の頭から手にかけて、すっぽりとかぶってしまえば、昼間でも水晶の内部で光の動きを見ることができるのだった。妻に見つからないよう、注意を怠らず、この実験は、午後、妻が二階で昼寝をしているあいだだけ、カウンター下の引っこんだところで用心深くおこなったのである。そんなある日、水晶を手の中で回転させていると、何かが目をとらえた。閃光のように現れては消えてしまったのだが、彼の目には、水晶の内部に、ひろびろとした見知らぬ大地の光景が、一瞬、拡がったように映ったのである。もういちど回してみると、光が消える瞬間に、また同じ光景が見えたのだった。
さて、ミスター・ケイヴの発見を逐一記述することは、退屈でもあるだろうし不必要なことでもある。要点のみを述べるに留めよう。すなわち水晶は、照射光線から約137度の角度で注視するならば、ひろびろと開けた風変わりな地方の鮮明な光景を、いかなる場合でも映し出すのである。それは決して夢のようなあやふやなものではなかった。実在するものの確かな印象がそこにはあり、光が適切であればあるほど、一層ほんものらしく、また確かなもののように思えるのだった。同時に、動く絵でもあった。つまり、そのなかにある物体のいくつかが動いている、ゆっくりとではあるが、実在のもののように、規則的なふるまいをしているのだった。光線の角度が変化したり、見る角度が変わったりすれば、それに従って、情景も変化した。確かに、卵形のガラスを通して風景を眺めていたとして、ガラスを回転させたなら、ちがう角度からの風景が見えてくるにちがいない。
ミスター・ウェイスはわたしに請け合ったのだが、ミスター・ケイヴの話は微に入り細に入りのもので、幻覚からくる印象に特有の感情的な特徴は一切なかった、ということだった。だが、このことは忘れないでいただきたいのだが、ミスター・ウェイスがあらゆる手を尽くして、水晶の微かな乳白色の光のなかに同じようにはっきりしたものを見ようとしても、ことごとくが不首尾に終わったのである。ふたりが受けた印象の強さにはずいぶんの差があり、ミスター・ケイヴの目に風景と見えたものが、ミスター・ウェイスには、はっきりとしな星雲のようにしか見えなかったのである。
ミスター・ケイヴの説明によれば、その光景は決まって広大な平原で、いつもその場所をかなり高いところ、塔とかマストのてっぺんのような位置から眺めているらしかった。平原の東と西は、はるか彼方、そびえ立つ巨大な赤土の絶壁が境界を作っている。その絶壁は、かつて見たことのある何かの絵を思いだしたのだが、それが何かまではミスター・ウェイスにも確かめられなかった。絶壁は南北に――方位は夜空に見える星をもとに判断できた――ほとんど無限の彼方まで遠近法に沿って伸びていき、二本の線が合わさる前に、かすんで見えなくなってしまっていた。ミスター・ケイヴがいるのは、東側の絶壁に近いあたりだった。最初に見たときは、太陽が絶壁の上を昇っていくところで、空に舞いあがる無数の姿、太陽の光を背にしたときには黒く、絶壁の影を背にしたときは白い姿が見えたので、あれは鳥なのだろうとミスター・ケイヴは考えた。眼下にはさまざまな建物が拡がっていた。自分はその鳥とおぼしきものを見おろしているらしかった。情景の端のぼやけて屈折したような場所に近づくと、姿ははっきりしなくなってしまった。奇妙なかたちの木、苔むしたような緑と美しい灰色の木が、広く、日に輝く運河沿いに続いている。なにか巨大であざやかな色のなにものかが、景色を横切るように飛んでいった。ミスター・ケイヴが最初にこの情景を見たのは、ほんの一瞬だったのだが、手はぶるぶる震え、頭はクラクラし、情景は現れたかと思うと消え、すぐに霧がかかったように、はっきりしなくなってしまった。そうして最初の時は、ひとたび情景の方向を失ってしまうと、もういちど見つけることはとんでもなく大変なことだった。
(この項つづく)