H.G.ウェルズは以前にも「H.G.ウェルズとタイムマシン」で書いたことがあるのだが、大変に洞察力のある人だった。『アシモフの雑学コレクション』にも「H.G.ウェルズは千九百十四年の小説のなかで、原子兵器について書き、それを原子爆弾と呼んだ」と出てくるが、その洞察力には舌を巻く。
ところでそのウェルズの処女作である『タイムマシン』には未来人が出てくる。
未来人は小柄で優雅でみな美しい。優しく、子供のようにあどけなく、「耳や口は非常に小さく、薄い唇は燃えるような紅色で、顎の先は細い。大きい柔和な眼には、気のせいかもしれないのだが、ぼくの期待していた知的好奇の光はないようである」(『タイム・マシン 他九篇』橋本槙矩訳 岩波文庫)という外見である
実際彼らは優しく、人なつこく、子供っぽい。すぐに疲れてしまい、怠け者で、物事に無関心なのである。なにしろ未来社会は平和な共産主義社会で、生活は安定し、自然は征服されてしまった。人類は何ら野心を抱かず、労働の必要もなく、男女の区別もなくなっている。その彼らを脅かす生き物もいるのだが、それはここでの話とはちょっとずれるので、興味がある方は本を読んでみてください(ただ、わたしの手元にある岩波文庫はかならずしも逐語訳ではなく、省略も多いので、別のところから出ている方がいいかもしれません)。
ウェルズ描くところの未来人が、そのような姿であるのも理由がある。
「人間の力は困窮から生まれるのだが、社会の安定は脆弱を生む。人類は社会改革と生活安定のための努力を続け、ついに最高の地点に到達した。人間は次から次へと自然を征服していった。現在は夢にすぎないことが、実現された。」
理想状態に到達した人類はもはや変革を望まない。そこで満ち足り、穏やかで、優しく、子供のようになってしまったというのである。
理想というのは、手が届かないところにあるからこそ理想であることを思うと、どれほど科学技術が進歩を遂げても、理想はその先にあるように思う。だから、「未来人」がもはや野心を抱かないかというと、それは疑問であるように思う。
一方で、ウェルズの未来人と現代人の類似点を見つけることも容易であることもまた確かなのである。
できればこれは当たってほしくない方の予言なのだが……。
更新情報も書きました。
ところでそのウェルズの処女作である『タイムマシン』には未来人が出てくる。
未来人は小柄で優雅でみな美しい。優しく、子供のようにあどけなく、「耳や口は非常に小さく、薄い唇は燃えるような紅色で、顎の先は細い。大きい柔和な眼には、気のせいかもしれないのだが、ぼくの期待していた知的好奇の光はないようである」(『タイム・マシン 他九篇』橋本槙矩訳 岩波文庫)という外見である
実際彼らは優しく、人なつこく、子供っぽい。すぐに疲れてしまい、怠け者で、物事に無関心なのである。なにしろ未来社会は平和な共産主義社会で、生活は安定し、自然は征服されてしまった。人類は何ら野心を抱かず、労働の必要もなく、男女の区別もなくなっている。その彼らを脅かす生き物もいるのだが、それはここでの話とはちょっとずれるので、興味がある方は本を読んでみてください(ただ、わたしの手元にある岩波文庫はかならずしも逐語訳ではなく、省略も多いので、別のところから出ている方がいいかもしれません)。
ウェルズ描くところの未来人が、そのような姿であるのも理由がある。
「人間の力は困窮から生まれるのだが、社会の安定は脆弱を生む。人類は社会改革と生活安定のための努力を続け、ついに最高の地点に到達した。人間は次から次へと自然を征服していった。現在は夢にすぎないことが、実現された。」
理想状態に到達した人類はもはや変革を望まない。そこで満ち足り、穏やかで、優しく、子供のようになってしまったというのである。
理想というのは、手が届かないところにあるからこそ理想であることを思うと、どれほど科学技術が進歩を遂げても、理想はその先にあるように思う。だから、「未来人」がもはや野心を抱かないかというと、それは疑問であるように思う。
一方で、ウェルズの未来人と現代人の類似点を見つけることも容易であることもまた確かなのである。
できればこれは当たってほしくない方の予言なのだが……。
更新情報も書きました。
未来が理想的に描かれていて、ラストも望ましい形でした。
もちろんそれは自分にとって、です。
とても辛かった青春時代。
私は主人公の様にいつも現実から脱出したいと思っていました。
自分と主人公を重ね合わせていたのです。
あれから何十年も経ちましたが、
やっぱり私は今でも同じような事を考えてる気がします。
理想状態に達すること自体が理想なのであれば、
永遠にそれを目指して夢を見ていられるのかもしれないですね。
わたしは『タイムマシン』が映画になってたなんて、全然知りませんでした!
wikipediaで映画版のあらすじを検索してびっくりしてしまいました。
ガイ・L.A.コンフィデンシャル/プリシラ・スピアーズが主演してるんですね。
《L.A.コンフィデンシャル》の彼はとてもステキでしたもんねえ。じゃ、《タイムマシン》も見てみることにしましょう(って、そういう話じゃない)。
wikipediaには「タイムトラベルのシーンは原作小説に忠実に描かれ、あたりの景色が時間とともに移り変わっていく様子がCGを駆使して描かれた。」とあるから、これは見てみなくては。ご紹介くださってありがとうございます。
> とても辛かった青春時代。
> 私は主人公の様にいつも現実から脱出したいと思っていました。
> 自分と主人公を重ね合わせていたのです。
その感じはなんとなくわかるように思います。
現状に満足できない人、少し先を見ながら、現状を何とか変えていこうとする人は、みんなそういう苦しみを引き受けていかなきゃならないんですよね。片方の足を現実に、もう片方の足を「少し先」に置いているから、引き裂かれる。
だけど、現実にずっぽり浸ったままだったら、昨日と同じ今日にしかならないし、明日にしかならない。
両足を自分の理想に置いてしまったら、今度は夢の世界でしか生きられなくなってしまう。
片方で先を見ながら、理想を頭のなかで思い描きながら、現実に常に戻ってきて、そのあいだを往復することによってしか、自分の「明日」は変わっていかないんだと思います。
> やっぱり私は今でも同じような事を考えてる気がします。
それはわたしも同じです。
そんなふうに考えると、やっぱり誰もが「時間旅行家」なのかもしれませんね。
空間移動こそしないけれど、頭のなかでは過去と現在と未来を自由に行き来しています。
映画、見てみますね。
ご紹介ありがとうございました。
>>ゆふさん、おはようございます。
ということで、やります(笑)。
サキ。
この短篇は読んだことがなかったから原文の方をざっと見てみたんだけど、おもしろい。
また三つほど訳してみます。こんどはどういうくくりで選んだか、想像してみてください。
サキは文章も好きだし、これはいったいどういうことを言っているんだ、と悩まなくてすむし、気軽にできるんですよね。原文と波長が合いやすいんです。
だから、このあいだに、書かなきゃいけない文章を煮詰めることもできるし(笑)。
書きこみありがとうございました。
また何かリクエストがあったら、またお気軽にしてみてください。
学生の方のリクエストは、ちょっと慎重になってしまうのですが、ゆふさんなら大歓迎(ってまさか試験勉強じゃありませんよね?)。
ついうっかり間違えてしまいました。
旧仮名で「吸血鬼」の表記はどうなるんだろう、とずっと考えていたので、無意識のうちにふたつのなまえを等号でくくって読んでました。
「ゆう」さんも、「ゆふ」さんも、まちがえてごめんなさいね。
私の言っていたのは59年のほうでした。
最近リメイクされてたんですね。
小学生くらいのときにテレビで見たんだと思います。
その後何十年も忘れられませんでした。
ネタばれになってしまうのであれかもですが、
主人公は新世界に居場所を見つけるんですよね。
今の自分の状況につい重ねてしまうような気がします。
勇気付けられるお返事ありがとうございます。
検索してみました。59年の映画は《八十万年後の世界へ タイム・マシン》っていうんですね。
You Tube で検索すると出てきました。
http://jp.youtube.com/watch?v=pRy1aCC37Fs
ちょうどタイムマシンに乗り込むところです。
http://jp.youtube.com/watch?v=qhTfsgFfUho&feature=related
こちらは模型。
何か、かわいい形です。デロリアンよりこっちの方が好みです(笑)。
ご紹介ありがとうございました。
また見てみたいと思います。
> 主人公は新世界に居場所を見つけるんですよね。
そうなんですよ。
タイムパラドックスなんてそっちのけ(笑)。
前のレスは、あんまり激励という気持ちはありませんでした。
なんていうのかな。
わたしは「自分はいままで恵まれていたから、あんまり悩んだり苦しんだりしてきたことがない」という人がどうもよくわからないんです。いや、そういうことは人に言うものではない、と思って、あえて涼しい顔をしている人ならわかるんですけどね。ほんとに、悩んだことも苦しんだこともない人なんているんだろうか、って。
それが、どうもたまにいるらしい。
どんな環境にいたとしても、周りとぶつかることによってしか、人は自分のやりたいことを見つけることはできないし、「これが自分なんだ」っていうものを作り上げることはできないはずです。「自分」というものをなんとか作ろうとする人は、誰だって苦しんでるんじゃないか。
それを、端で見て「甘えてる」だの「苦労知らず」だのと言うのは、まったく無神経な話ですし、「自分は苦労したのにあの人は…」みたいに僻んだりするのも、愚かな話だと思います。
みんな固有の「ゆがみ」みたいなものを持ってるんだと。
それが時によっては「個性」という言葉で呼ばれたり、「欠点」という言葉で呼ばれたりするんだと思うんです。だれもがその「ゆがみ」を抱えながら、周りとぶつかりながら、なんとか自分を大切に育てていこうとしてるんだと。
だから、わたしは人の「苦しみ」には敬意を払いたいと思ってるんです。
だって、それが礼儀じゃありませんか。
登山では、すれちがう人に挨拶するみたいに。
だから、ね。
まあ、そんなとこです(笑)。
また遊びに来てくださいね。