陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「好きなことをやりなさい」の罠

2013-01-26 23:54:11 | weblog
帰り道で、わたしの前を小学校の低学年ぐらいの女の子が自転車に乗って走っていた。頭の上でお団子にまとめた髪型、もこもこしたダウンの下から白いタイツをはいた細い足が、強い風にさからって、けんめいにペダルを踏んでいる。バレエ教室に通っているのだ。

わたしの子供時代はピアノやバレエというのは、女の子にとって今よりもっとありふれた習い事だったような気がする。小学校が私立だったこともあるのだろうが、ピアノを習っている子の方が学習塾に通っている子よりも多かったし、なかには月曜日と木曜日はピアノ、火曜日と金曜日はバレエ、水曜日は英語、土日は塾……と、毎日予定が埋まっている子までいた。

わたしの場合は四年生になるまでは、週に一回のピアノのレッスンだけだったが、正直、最初のうちはバレエの子がうらやましかった。ピアノは毎日練習しなければならないのに、バレエなら教室で稽古するだけだからいいなあ、と思っていたのだ。ところが友だちにそう言ってみたら、稽古場のバーがなくても、家で柔軟や基本姿勢の練習を毎日しなきゃならないの、と聞いて、結局どの習い事でも真剣にやろうと思えば、大変なのは一緒なのだと思ったものだった。

小さい頃からお稽古ごとを始めた子というのは、本人の意志とはまったく無関係であることがほとんどだろう。物心がつく前に、否応なしにピアノの前にすわらされ、練習を強いられる。あれこれ考え始める年代になっても、あまりに身になじみすぎていて、「何で自分はこんなことをしているのだろう」という疑問すら生まれない。

授業が終わると、掃除もそこそこに、かばんをまとめて急いで家に戻り、まっさきにピアノのふたを開ける。たいてい夜になると近所をはばかって練習などできなかったから、晩ご飯までのあいだが勝負だった。つぎのレッスンまでに、課題曲を十分に弾きこんでいなかったら、学校の先生などとは比べものにならないほど厳しいピアノの先生からの、容赦ない叱責が待っている。
「音をひとつ出しただけで、この間にどのくらい練習したかわかるのよ。そんなにやる気がないのなら、もう来なくていいのよ」と。
事実、レッスンの順番がわたしの前の子が、一度、一小節を弾くか弾かないかのうちに、「もう帰りなさい」とやめさせられて、泣きながら帰って行ったのも見たことがある。そんな話が親にでも行ったことなら、と見ていたわたしまで青ざめた。

そんなにやる気があったわけではないのだが、「レッスンをやめる」という選択肢は実際には与えられてはいなかった。「叱られることのないように」の一念で、指を間違えることなく適切な時間、適切な鍵盤を、適切な指できちんと押さえることができるよう、家に帰って練習を繰り返したものだった。

だがそれだけピアノの練習をやったからといって、どうにかなったということはまったくない。意味もなく絶対音感だけはついたものの、信号の音やサイレンが音階で聞こえたところで、何の役に立つこともなく、中学受験を機にやめてしまったわたしだけでなく、同じ先生に教わっていた他の子たちも、おそらくは音大にさえ進むことなく、どこかでやめていったように思う。

それでも、そんな練習がまったく無駄だったかというと、そうでもないような気がするのだ。

ピアノの練習にせよ、勉強にせよ、やって楽しいものではない。シャープが五つほどついている難曲を一度も間違えることなく弾けたときに「やった」と胸の内でガッツポーズをしてみたり、返却されたテストの点数を見てひそかにほくそ笑むことはあっても、そんなものは一瞬なのである。その一瞬のあとには、また練習しても練習しても出来なくて、悔し涙を流す日々が待っている。

それでも、楽しくなくても、その曲にすっかり飽きてしまっても、いやになっても、やり続ける。そうしているうちに、たとえばおもしろい映画を見たり、寝っ転がって時代小説やミステリを読んだり、気のあった友だちと話したり、旅行に行ったり、という楽しさとはちがう、なんというか、ほかのものでは味わえないような、変な言い方だけれども、「楽しくない」ことの「楽しさ」みたいなものが、ばくぜんとわかってくるのだ。ちょうど、子供のときはおいしくなかったオリーヴやムール貝やふきのとうのおいしさが、経験を重ねるうちに、いつのまにかわかってくるように。

こんな「楽しくないことの楽しさ」を知っている人なら、たとえば勉強でも仕事でも、「楽しくないからやらない」「やりたくないからやらない」「最初は楽しかったけれど、飽きてしまったからやりたくなくなった」と離れたり、やめてしまうということは少ないように思う。つまり、映画を見たり、遊んだり、の「楽しさ」を規準にすると、勉強や仕事や「やらなければならないこと」はどこまでいっても「楽しくない」。けれども「楽しくないことの楽しさ」を知っている人なら、たとえ出口が見えないような仕事でも、辛抱して、腰を据えて続けられるのではないか。

なんというか、わたし自身はそうした意味で、幼いころの経験にずいぶん助けられているように思うのだ。

絵や音楽や演劇など、いわゆる「好きなこと」を仕事にしている人がいる。
趣味でやるなら楽しい活動だけれど、それを仕事にしている人にとっては、「楽しい」というレベルではすまないことだろう。もちろん、「楽しさ」「やって良かった」と感じる一瞬がないわけではないだろうけれど、ほんとうにそんなものは一瞬で、ダメ出しされても、叩かれても、かならずしも自分の意に沿わなくても、それが仕事ならただただ黙々とやるしかない。けれどもそんな「楽しくないこと」を通じてしか、人の成長はないように思う。

「好きなことをやりなさい」という言い方があるけれども、「好き」だの「嫌い」だのというのは、うつろっていくものだ。「あのときは好きなような気がしたけれど、ほんとうはそれほどでもなかった」と、多くの人はいつしかそのことから離れていく。そんな「好き」を繰り返しても、あとには何も残らないのではないか。

ほんとうに言うのなら、「好きなことをやりなさい」ではなく、「楽しくないことが楽しいってわかるまでやってごらん」ではないのか、とわたしは思うのだ。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿